『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか:2ページ目
秀吉はなぜ家康との和睦を選んだのか
豊臣・徳川双方が身動きを取りにくい状況のなか、先に動いたのは秀吉でした。1586年(天正14年)正月、秀吉は信雄を仲介役として、家康との和睦を進めます。
これは秀吉にとって、必ずしも望んだ形での決着ではなかったのかもしれません。なぜなら、天正大地震による被害があったとはいえ、秀吉は依然として家康を圧倒する政治的基盤と軍事的力を持っていたからです。
大まかな計算になりますが、この当時の秀吉の推定石高は約400万〜500万石以上、家康は150万石程度で、最大動員兵力は秀吉が15万~20万に対し、家康は4万5千人ほどといわれています。
しかも、秀吉は関白に就任し、朝廷の権威を背景に天下統一を進める存在でした。それに対し、家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5カ国を支配しているとはいえ一介の大名にすぎません。
仮に秀吉が本格的な討伐に乗り出せば、家康は厳しい立場に追い込まれたでしょう。とくに、家康が新たに領国へ組み入れた甲斐・信濃では、国衆たちの動向にも注意を払わなければなりません。戦況が不利になれば、彼らが離反する可能性も考えられたからです。
もちろん、家康には同盟関係にあった北条氏の存在がありました。約7万の兵力を有する北条氏政(谷原章介)の援軍を期待することもできたでしょう。
しかし、秀吉が多数の大名を動員して徳川領を包囲するような戦略を採れば、徳川・北条連合軍だけで対抗するのは容易ではなかったはずです。
つまり、秀吉が時間をかけて徳川包囲網を築き、軍事力だけでなく外交や謀略も駆使して家康を追い詰めていけば、徳川家が滅亡の危機に陥る可能性があったのです。
ところが、秀吉は武力による決着ではなく、和睦を選びました。この秀吉の判断は、家康にとっては、まさに命拾いだったといっても過言ではありません。
そして、このとき秀吉が選んだ道は、のちの豊臣家の運命を考えるうえでも、見逃せない分岐点だったのです。

