『豊臣兄弟!』妹を強制離縁、実母すら人質に…秀吉はなぜそこまで“非情”になって家康に執着したのか:3ページ目
妹・あさひの輿入れ
秀吉が家康との武力衝突を避けた背景には、天正大地震による被害も影響していたと考えられます。ただし、それだけが和睦を選んだ理由だったと断定することはできません。
1586年(天正14年)5月、秀吉は妹のあさひ(倉沢杏菜)を副田吉成(前原瑞樹)と離別させ、家康の正室として嫁がせました。
『豊臣兄弟!』では、家康が和睦を受け入れる代償として、秀吉の肉親を正室に迎えることを求めたかのように描かれます。
実際に、秀吉と家康のどちらが最初にこの縁談を持ちかけたのか、詳しい経緯を確定するのは困難です。しかし、この婚姻が両家にとって重要な意味を持っていたことは間違いありません。
家康にとっては、秀吉の妹を正室に迎えることで、豊臣政権内での立場を有利にする効果が期待できました。一方、秀吉にとっても、妹を嫁がせることで家康を義弟という関係に取り込み、政治的な結びつきを強める狙いがあったと考えられます。
京都の聚楽第を出発したあさひの輿入れ行列は、150名余りを従え、5月14日に浜松へ到着しました。
浅野長政・富田知信・織田長益らが付き従い、その行列は「板輿十丁、乗物三十丁」という大規模なものだったと伝えられます。『宇野主水日記』にも、その華やかさを「華麗なことは書き載せるまでもない」と記すほどの盛儀だったことがうかがえます。
あさひはその後、駿河府中(駿府)に居を構え、「駿河御前」と呼ばれるようになりました。このとき、家康は45歳、あさひは44歳とされます。
ところが、妹を嫁がせても、家康はなかなか上洛しようとしません。そこで秀吉は、さらなる一手を打ちます。それが、母・なか(大政所/坂井真紀)を家康のもとへ送ることでした。

