朝ドラ「ばけばけ」病に侵され奪われた未来…錦織友一(吉沢亮)のモデル、大盤石こと西田千太郎の生涯
朝ドラ「ばけばけ」には、魅力的な人物が数多く登場しますね。
中には実在した人物をモデルとしたキャラクターも存在します。吉沢亮さん演じる錦織友一もその一人です。
モデルとなったのは、西田千太郎。松江出身の教育者として、大きな足跡を残した人物でした。
千太郎はどのように生き、何を感じて人々と交わったのでしょうか。
西田千太郎の生涯について見ていきましょう。
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足軽の子として松江に生まれる
文久2(1862)年9月18日、出雲国松江の雑賀町で西田千太郎は生を受けました。父は松江藩士・西田半兵衛と伝わります。
父・半兵衛は松江藩士と言えども、足軽身分の下級武士です。
当時の武士は上から騎士・徒士・卒という身分に区分されていました。この最下層の卒が足軽です。
千太郎の家は、武家社会において出世を望める地位ではありませんでした。
しかし当時は風雲急を告げる幕末の時代です。旧来の身分制度はすぐに瓦解することとなります。
慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発。勝利した明治新政府が新たな時代を築いていくこととなりました。
明治維新によって、政府はさまざまな改革を実施。その中には武士(士族と改称)たちの秩禄(給料)も含まれていました。
松江藩においても、多くの武士たちが困窮。千太郎の実家も困っていたことは想像に難くありません。
明治6(1873)年、千太郎は藩校であった修道館に入校。次いで同年に設置された雑賀小学校に入学して勉学に励みます。
明治は身分制度が変動した時代です。本人の努力次第によっては、成功する道も用意されていました。
明治9(1876)年、千太郎は勉学の末に教員伝習校変則中学(松江中学校)に入学。教員を目指して更なる勉学に励むようになりました。
千太郎の成績は学年でトップに躍り出るほどでしたが、ここで悲運に見舞われます。
明治13(1880)年、千太郎は中学を中退。元来体が弱かったことと、実家の貧困のためと言われています。
やむなく千太郎は、授業手伝として母校の松江中学で学生たちに勉学を教える立場となりました。
ドラマ「ばけばけ」の中で銀二郎が「資格が無いまま教えていた」と語る一節がありましたね。あれはこれをモデルにしていると思われます。


