絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その2】
狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)を紹介するシリーズの2回目。
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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その1】
狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松(かいほうゆうしょう)。建仁寺方丈の『雲龍図』に代表されるダイナミックな作風の水墨画など多くの名作を残している。友松は近江浅井家で重臣…
父の死により京都東福寺に入った友松だったが、海北家は主君浅井長政とともに織田信長により滅ぼされた。
友松は、画家として活動する傍ら、海北家の再興を目指すことになる。
【その2】では、主君・浅井家の滅亡と運命をともにした実家・海北家の再興を目指す友松が、その過程で出会った斎藤利三を始めとする人々のお話をしよう。
武門の誉れ高い友松の父・海北綱親
友松の実家・海北家は、北近江の戦国大名浅井家の重臣の家柄である。
友松の父・海北綱親は、浅井家中にあって赤尾清綱・雨森清貞と並び、浅井三将と称された一人で、浅井軍の軍奉行(いくさぶぎょう)として軍事全般の総指揮にあたった人物だった。
織田信長のもとで、浅井攻めに従事していた豊臣秀吉は、綱親の知勇兼備の才覚を恐れていたという。そして、後に友松を謁見した時に、
敵と味方に分かれていたとはいえ、そなたの父は、余の軍(いくさ)の師であった。
と感慨を述べている。
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