知れば時代劇がもっと楽しく!江戸時代の処罰「改易」「減封」「転封」の意味や大名の実例を詳しく解説
「改易」って何?
江戸時代の歴史を調べていると、よく「改易(かいえき)」という言葉が出てきますね。
お家騒動などで統治に失敗した大名に下される、一種の刑罰です。しかしこの「改易」という言葉、漠然とニュアンスは分かっても、細かい内容はあまり知られていません。
今回は、この「改易」という言葉の由来や詳しい内容を説明していきます。
改易という言葉自体は、律令制度の時代からありました。
もともとは、「現職者の解任」と「新任者の補任」のことを意味していましたようです。
鎌倉・室町時代になると、「守護」や「地頭」の変更を意味するようになり、江戸時代になってから、大名や旗本に対して、武士としての身分の剥奪や領地の没収などの処分を意味するようになりました。
改易された大名たちは死罪となり、切腹や斬首となるか、死罪とまでいかなくとも他の大名の監視のもとで蟄居(昼夜とも出入りを許さず自宅の一室に謹慎させること)させられたりしました。
例外的なケースとしては、関ヶ原の合戦で西軍に味方して八丈島に流罪となった宇喜多秀家がいます(ちなみに彼は、加賀前田氏や旧臣からの援助を受けながら、現地で50年間生き延びました)。
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また、同じく西軍に味方した立花宗茂や丹羽長重のように、一度は改易されたもののその後大名に復帰できた例もあります。
また、有馬晴信は改易処分を受けて死罪となりますが、子の直純が家督を継ぎ、有馬家自体の存続は許されたという例もあります。
ただ有馬家の場合は、直純が徳川家康の娘婿で、なおかつ秀忠のお気に入りだったためとも言われています。このような例はごく少数で、大多数の大名は一度改易処分を受けると復活も許されませんでした。