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”くせもの”は頼もしき者?武士道バイブル『葉隠』が伝える忠義の距離感とは

”くせもの”は頼もしき者?武士道バイブル『葉隠』が伝える忠義の距離感とは

「むっ、曲者(くせもの)!」

時代劇で、屋敷に侵入した不審者を咎めるこのセリフ。他にも、一癖ある人物について警戒を促す時など、とかく曲者という言葉にはよいイメージがないようです。

しかし毒にも薬にもならないような人物というのは、ここ一番で頼りないもので、逆に一癖あるくらいの方が、与(くみ)するに心強いというもの。

そんな心情はいつの時代も変わらないようで、今回は江戸時代の武士道バイブルとして知られる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、曲者に関する教訓を紹介。

武士たちが語る曲者とは、現代の私たちがイメージするそれと少し違っていたようです。

神右衛門申し候は……

一三三 神右衛門申し候は、「曲者は頼もしき者、頼もしき者は曲者なり。年来ためし覚えあり。頼もしきと云ふは、首尾よき時は入らず、人の落ち目になり、難儀する時節、くゞり入りて頼もしするが頼母しなり。左様の人は必定曲者なり。」と。

※『葉隠』第一巻より

【意訳】曲者とは頼もしいもので、頼もしい者にはたいてい一癖あるものである。そういう事例をこれまで多く見てきた。
頼もしいというのは、調子のよい時はそばにいないけれど、いざ困難に見舞われた時にやって来て力を発揮する……そういう者は決まって曲者である。

……ちょっと話している先生(『葉隠』の口述者:山本常朝)もこんがらがっている気がしないでもありませんが、要するに「いつもはそばにいないけど、ここ一番で必ず力になってくれる」そんな偏屈者がイメージされます。

で、力を尽くして困難を打開すると、感謝されるのが恥ずかしいのか、また何事もなかったかのように去っていく……主君に対してそんな距離感で忠義を尽くす私でありたい……という美意識というか憧れ?を持っていそうですね。

ちなみに、この章に登場する神右衛門(じんゑもん)とは代々の通称で、恐らくは父親の山本神右衛門重澄(しげずみ)でしょう。

「よいか、真に頼もしき家来というものは得てして曲者であってだな……」

一癖あるくらいでなければ主君のお役には立てない……父の薫陶を受けて、常朝も立派な曲者に成長したのでした。

※参考文献:

  • 古川哲史ら校訂『葉隠 上』岩波文庫、2011年1月
 

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