縄文時代はなんと一万年以上もあった!(最終回)晩期・人々の精神性は高く〜縄文時代の終焉
前回までの話
北海道・北東北を中心にさかんに環状列石(ストーンサークル)が作られたことから、“指導力”“威厳”を持つものの存在があったのではないかという説が生じます。
また敷石住居址がみつかり、一般的な住居なのか祭祀場なのかという論争が起こり、祖霊崇拝、狩猟儀式の場の必要性があったのではないかと考えられるようになりました。
縄文時代はなんと一万年以上もあった!(6)後期・ストーンサークルの巨大祭祀共同墓地への変容
今回は縄文時代・晩期についてご紹介します。これが最終回となります。
縄文時代・晩期(紀元前1,000年~紀元前300年頃)
気候については気温が2度前後低下し、現代の気温と同程度になったと言われています。
海面は低下がみられ、漁労活動に壊滅的な打撃を与えました。
今までの漁労方法が使えなくなったためか、東北の太平洋側で銛(もり)漁が始まります。この銛は鹿の角などで作られたものであり、獲物に命中するとその銛の部分だけが獲物の体内に残り、銛は紐で持ち手の棒の部分に繋がり、獲物が動くほど銛が体内で回転し深く刺さるような仕組みになっていたようです。
このような銛の先端部分が東北地方の沿岸近くの遺跡や貝塚などで多く発見されました。
狩猟や採集活動も、天候の変化によって動物の食物である木の実や葉などが少なくなってきたことから動物自体の個体数も減っていったと考えられ、同じく人間も狩猟や採集による食物の獲得が難しくなっていったと思われます。
しかし、青森県つがる市にある集落が栄え、「亀ヶ岡遺跡」と呼ばれています。この集落が繁栄した要因として内湾である古十三湖や海が近くにあり、食物となるものがまだ豊富にあったのではないかと推測されます。
亀ヶ岡遺跡では遮光式土偶が出土され、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されています。
遮光器土偶は目がイヌイットやエスキモーが使用する遮光器(ゴーグル)に似ていたためにその名前が付けられました。しかし遮光器との直接の関係はなく目の誇張表現と考えられています。
遮光器土偶は東北地方からの出土が多く、模倣した土偶は北海道南部・関東・中部・近畿にまで広がっています。
ほとんどのものが足や腕などが欠損もしくは切断された状態でみつかっており、これはその部分の怪我の治癒を願ったり、多産豊穣を祈るために行われた行為だと考えられています。またその部分を再生して繰り返し使用していたようです。
青森県の亀ヶ岡遺跡で出土される土器は形や模様が精緻であり、他にも赤く色付けされた土器や、漆塗りの木製品などが出土され、その美しい工芸品のような様式が北海道から中部・近畿の広い地区にわたって流行しました。これは亀ヶ岡文化と称されています。
このような特殊とも言える品々を創り出した感性には、それを要求する高度な精神構造や祖先崇拝に対する感情が存在していたのではないかと考えられています。
西日本最後の縄文土器
そして西日本では縄文時代・晩期を代表するのは「刻目突帯文(きざみめとったいもん)土器」です。
形は弥生土器と同じく簡素であり、佐賀県の「菜畑遺跡」から出土した“山の寺式土器”と、福岡県の「板付遺跡」からはなんと水田跡とともに出土した“夜臼式土器”が代表的です。
特徴としては甕に刻目突帯文と呼ばれる突帯が甕口の外側に連続して付けられています。“山の寺式土器”は刻目突帯が甕口の外側と甕の胴部にいくらか装飾的に施されており、“夜臼式土器”は甕の口の部分にのみ施されています。
これらは西日本の最後の縄文土器となります。