異例の大出世!戦国時代に商人から一大名にまで上り詰めた小西行長の活躍から斬首まで
戦国時代は農民から武士になった豊臣秀吉や猿楽師から武士になった大久保長安がいたりと、意外な出自から武士になった人物が多い時代でありました。
その中でも商人から武士として見出され、豊臣家臣として多大なる活躍をした人物がいました。
その人物は小西行長(こにし-ゆきなが)。今回は行長が武士になった経緯と武士としてどのような活躍をしたのかご紹介します。
商人から武士へ
行長は堺の商人である小西隆佐(こにし-りゅうさ)の次男として永禄元年(1558)に生まれます。次男だったので養子として出されることになります。
そして行長は商人として養子先の商売相手である宇喜多家へ出向くのですが、そこで当主だった宇喜多直家に才能を見出され、宇喜多家の家臣になりました。
その後天正7年(1579)、宇喜多家が織田家に属した際、三木城攻めを行っていた豊臣秀吉の元に直家からの使者として行長が出向きます。
行長はそこでも才能を発揮したことで秀吉の目に止まり、今後は秀吉の家臣として歩んでいくことになりました。
舟奉行として秀吉をサポート
秀吉の家臣となった行長は舟奉行として海上に関することを管理することになります。水軍を指揮することはもちろんのこと、物資の海上輸送も抜かりなくこなしました。
そして、天正13年(1585)の紀州征伐や天正15年(1587)の九州征伐、肥後国人一揆で名を挙げた行長は肥後国(熊本県)南部を領地とする大名として出世しました。
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