江戸時代、日本は鎖国などしていなかった?江戸時代における海外貿易の実情
2017年の社会科学習指導要領の改定案で、「鎖国」を教科書から外し、「幕府の対外政策」といった別の言葉に置き換えることが検討されました。
それは現在、江戸時代に日本は鎖国などをしていなかったという考えが一般的になりつつあるからです。
- 徳川幕府の対外政策によって、日本は「鎖国」状態にあり、およそ200年間にわたって外国との交流が禁じられていた。
- 唯一、海外への門戸が開かれていたのが長崎にあった出島で、日本は出島を窓口としてオランダ、中国(明・清)との交易を行った。
この二点が、恐らく誰もが一度は習ったことのある記述だと思います。
そもそも「鎖国」とは、海外への窓口が完全に閉ざされた状態のことをいうのですが、それは江戸時代の実態とはまた違うものでした。
確かに、幕府は日本人の海外渡航と帰国を禁止し、スペイン・ポルトガル船の来航を禁じるなどの政策を行ってはいました。しかし、それでも東アジアとは国際関係を結んでいましたし、松前藩は蝦夷、対馬藩は朝鮮、薩摩藩は琉球王国と、それぞれ藩レベルで窓口を立てて、交易を行っているのです。
それらに加えて、長崎が、幕府に許可された特別な都市として、中国とオランダと交易をしていたのです。つまり日本にはこの時点で四つの窓口が世界に開かれていたことになります。それらの交易の全体を統括していたのが、幕府でした。
つまり幕府は5つの国と外交を続けていたということになります。特に朝鮮とは非常に活発な交易を行っており、朝鮮半島のプサンには「倭館」といわれる貿易の取引所まで設置されていたのです。
また、日本とほぼ同じ頃に朝鮮や中国も一般人の海外渡航を禁止しており、特定の港で特定の限られた国とだけ交易を行っていました。これを「海禁政策」といいます。
このことから考えると、日本も、「鎖国」というよりは、「海禁」といったほうが実情に合っています。
そもそも「鎖国」という言葉が広がったのは、1801(享和元)年に蘭学者で長崎のオランダ通詞であった志筑忠雄という人物が、ドイツ人医師だったケンペルの『日本誌』の一章を『鎖国論』と翻訳したことがきっかけでした。
日々の歴史研究の成果が、挿絵の一部、教科書のほんの一行を、地味ですけど少しずつ変えています。
参考