学問の神様・菅原道真公の怨霊が引き起こした数々の悲劇【前編】
学問の神様として人気を集める菅原道真公。宇多天皇の右腕として重用され、忠臣として才気を発揮したことは有名です。
しかし彼の最期は不遇なもので、宇多天皇が譲位した後、醍醐天皇の御代であらぬ謀反の疑いをかけられ、九州大宰府に左遷されたのち、悲しみのうちに亡くなりました。その後、宮中に不幸が続いたため、人々は菅原道真の呪いだと噂をするようになります。
死してなお力を発揮した道真の存在は、あまりにおそれられたためその後神格化し、神様となって今に至ります。今回は菅原道真の怨霊が引き起こした数々の悲劇にクローズアップします。
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昌泰の変で菅原道真が失脚
事の発端は901年(昌泰4年)1月。右大臣菅原道真と確執のあった左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)・大納言源光(みなもとのひかる)・藤原菅根(ふじわらのすがね)らの讒言により、醍醐天皇が道真のことを大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした昌泰の変(しょうたいのへん)でした。
詩歌や文章、書道など学問の天才と謳われた菅原道真は、都からはるか遠く離れた九州の地で、不遇のうちに延喜3年2月25日に亡くなります。
ここから道真の「復讐」がはじまったのです。
時平らが次々死亡
才気あふれる宿敵・菅原道真を左遷により葬り去り、実質政治のトップに上り詰めた藤原時平は、時の醍醐天皇の信頼を得ていよいよ意欲的に政治改革に乗り出します。しかし、道真の死からわずか5年後、延喜8年(908年)には時平と共に道真が左遷されるきっかけを作った藤原菅根が病死。
さらには翌年延喜9年(909年)、時平自身が39歳の若さで突如として死亡します。不幸はそれのみにとどまらず、時平と結託し菅原道真を失脚させた源光が、延喜13年(913年)狩りの最中に泥沼に沈んで溺死してしまうのです。
源光はもともと大納言でしたが、道真の死後は、その後任として右大臣に叙任されてほくほくしていた人物でした。