織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【中】
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織田信長に殺された悲劇の女城主「おつやの方」がたどった数奇な運命【上】
尾張の戦国大名・織田信長(おだ のぶなが)の叔母である艶(つや。おつやの方)は、政略結婚によって東美濃の岩村城主・遠山景任(とおやま かげとう)に嫁ぎました。
西は信長、東は武田信玄(たけだ しんげん)の板挟みになりながらも両雄の間(甲尾同盟)を取り持ち、辛うじて平和を保っていましたが、夫・景任の死によって状況は一変。
東美濃の制圧を目論む信長は岩村城に軍勢を派遣し、自分の五男・御坊丸(ごぼうまる。後の織田勝長)を遠山家に養子入りさせます。
まだ幼い御坊丸に代わって養母の艶が城主を務めますが、信玄は女子供の治める岩村城の手薄を衝こうと、天下取り(上洛作戦)の第一歩として兵を差し向けたのでした。
1ヶ月以上にわたる籠城戦
元亀三1572年10月、武田家の侍大将・秋山伯耆守虎繁(あきやま ほうきのかみとらしげ)の軍勢が岩村城を攻囲。
「その方らに勝ち目はない!城兵の命は安堵(≒助ける)申すゆえ、潔く降られよ!」
主君の天下取りに際して、緒戦から無駄な血を流したくなかったのか、あるいは城主が女子供だからと侮ったか、虎繁はまず艶たちに降伏を勧告します。
しかし、艶たちは気丈に抗戦する旨を回答。戦いの火蓋が切って落とされました。
岩村城は後世「日本三大山城(あと二つは高取城、備中松山城)」に数えられるほど堅固な要害であり、また別名を「霧ヶ城」と呼ばれるほど多く発生する濃霧も活かして、艶たちは断続的な奇襲攻撃を繰り返し、大いに武田軍を悩ませました。
かくして籠城戦は年をまたいで1ヶ月以上にわたり、艶たちは亡舅・遠山景前(かげまえ)の雪辱(※)を果たすと共に、遠山家の面目を大いに施したのでした。
(※)弘治元1555年に武田信玄が岩村城を攻囲。遠山景前がその軍門に降って以来、遠山家は武田家に臣従していました。
しかし衆寡敵せず、また信長からの援軍もままならない苦境の末、艶たちはいよいよ追い詰められてしまいます。
「もはやこれまで……御坊丸や、覚悟はよいか……?」
敵の手にかかるよりは、と自害を決した艶でしたが、そこへ武田の使者がやって来ました。