【ブラッサム】珠のモデルと結婚も束の間、置き去りにされ…木村保(金子大地)のモデル・藤村忠の生涯:2ページ目
大正5(1916)年、忠と千代は京都の知恩院裏で同棲を開始。六畳一間の部屋でしたが、二人は慎ましく暮らしました。
忠の父は裁判所を退職しており、京都への仕送りが滞りがちです。そこで千代が質屋に通ったり、家事手伝いの仕事をして生活を支えました。
翌大正6(1917)年、忠は東京帝国大学へ進学。忠と千代は一緒に上京します。
千代は雑誌社の事務や家庭教師などの仕事に従事。本郷のレストラン「燕楽軒」でも働きます。
ここで編集者や作家と知り合ったことが、その後の文学活動につながっていきました。
大正8(1919)年、忠は在学中に千代と結婚。翌大正9(1920)年に忠は東京帝国大学法学部政治学科を卒業して北海道拓殖銀行に就職します。
学生とその生活を支える伴侶だった二人は、札幌で新たな暮らしを始めました。
大正10(1921)年、千代の「脂粉の顔」が『時事新報』の懸賞短篇小説で一等に入選。千代はこれで賞金200円を手にしました。
続いて千代が書いた「墓を発く」は、大正11(1922)年5月の『中央公論』に掲載されています。
忠との札幌生活は、千代が作家として世に出た時期と重なります。
ところが、この作家としての出発が、二人の別れにもつながりました。
原稿の採否を確かめるため、千代が上京。その後原稿料を受け取って岩国へ帰郷し、東京で小説家の尾崎士郎と出会い、やがて彼と暮らすようになります。
結局、千代は忠の待つ札幌へは戻りませんでした。
大正13(1924)年、忠と千代の協議離婚が成立。京都から東京、そして札幌へと続いた二人の関係は、婚姻のうえでも終わりを迎えました。
