【ブラッサム】最速離婚した夫の弟が「2度目の夫」に!史実での再会と同棲、モデル・宇野千代が辿った波乱の愛:3ページ目
再会から親しくなり同棲へ
再会当時、京都の第三高等学校に通っていた忠は、夏休みで帰郷中でした。それがきっかけで、千夜は、弟妹を連れて伯母の家に遊びに行ったりするうちに懇意になりました。
そして、京都・知恩院の塔頭の小部屋で忠と同棲が始めたのでした。
このときの二年足らずの京都の生活は、私の生涯の間に、二度とはないくらいの呑気な生活であった。『生きていく私』
19歳と19歳半というまだ若い二人の生活。狭い部屋で身を寄せ合う貧しい日々でも、仲良く暮らした様子が想像できるようです。
1917年(大正6年)、忠は三高を卒業し、東京帝国大学(今の東大)法科大学入学に合わせて二人は東京へ住まいを移し、上京しました。
京都から東京へ
上京したものの、忠は家からの送金がままならなくなったため、大学に籍を置きつつも役所の雇員として働きました。
千代は雑誌社の事務員や中国人留学生向けの日本語教師、写真のモデルなどで働いたり、本郷の高級西洋料理店『燕楽軒』の給仕のアルバイトをしました。
ここではわずか18日間という短い勤務だったものの、のちに千代が文壇へといく足がかりを作ることとなる、『中央公論』編集長の滝田樗陰(たきた ちょいん/滝田哲太郎)との出会いがあったのです。
また、今東光・芥川龍之介・久米正雄・今日出海・佐藤春夫ら文士たちとの出会いもありました。
大正8年(1919)、千代と忠は入籍します。
忠は東京帝国大学法科大学を無事卒業、北海道拓殖銀行に就職したことをきっかけに、二人は札幌に移住したのでした。
千代は、得意だった裁縫の腕をいかして、仕立物を請け負ったり、頼母子講(※)に精を出したりして生活を支えていました。
※無人講とも呼ばれた民間の組織。構成員が一定のお金を出し合い、入札などで順番を決めて取り合い、全員に巡るまで行う仕組み。

