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『豊臣兄弟!』なぜ秀長(仲野太賀)は奈良の商人を大和郡山へ移した? 奈良筆・奈良墨から見る大和の経済力

『豊臣兄弟!』なぜ秀長(仲野太賀)は奈良の商人を大和郡山へ移した? 奈良筆・奈良墨から見る大和の経済力:3ページ目

日本の筆文化を支えた奈良筆、そのルーツは空海にあった?

では、まずは奈良筆からみていきましょう。

日本の筆文化は、飛鳥時代(6世紀末〜7世紀頃)、渡来人により大陸から伝わり、このときに筆・墨・硯(すずり)がセットで日本へ入ってきたとされます。

そして、奈良筆については、留学僧として唐に渡った空海が、現地で筆の製法を学び、日本へ持ち帰ったという伝承が残されているのです。

空海は帰国後、大和国今井の住人・酒井名清川に筆を作らせ、嵯峨天皇や皇太子に献上したと伝えられています。やがて筆作り中心は、墨の生産地でもあった奈良へ移っていったようです。

その理由は、明快ですね。奈良には東大寺や興福寺をはじめとする大寺院が数多くありました。経典の書写や寺院の文書など、筆を使う機会はいくらでもあったわけです。

つまり奈良には、筆を必要とするたくさんの顧客がいた。こうした寺院を中心とした需要が、奈良の筆作りの技術の発達と職人たちによる専門的な生産へと発展していきました。

ちなみに、現在のように毛を混ぜ合わせて穂を作る「無芯筆」が登場したのは江戸時代の元禄期という説が一般的です。

それ以前は、芯になる毛を麻紙のような紙でしっかり巻き固め、その上に薄く衣毛をかぶせて穂を作る様式でした。そのため、穂の根元が固く、現在の筆とは書き味がかなり異なったのです。

狩野永徳(片岡鶴太郎)に依頼された筆を試作するシーンで、才蔵は幾種類もの動物の毛を合わせて巻くという手法をとっていました。

これは「無芯筆」ですね。時代的には史実と合わないのですが、永徳の言う「もっと根元にしっかりと墨や絵の具を吸い込む」ためには無芯筆でないと無理でしょう。

『豊臣兄弟!』では、意図的にかどうかは別として、才蔵を無芯筆の発明者にしたようです。

ともあれ、この筋書きがフィクションであっても、奈良で筆作りが発展してきた背景には、技術の革新を怠らなかった職人たちの長い歴史があったと考えて間違いないでしょう。

4ページ目 奈良墨は全国シェア9割!寺院文化から生まれたもう一つの名産

 

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