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『豊臣兄弟!』磐覚(坂口涼太郎)のポーズが話題「阿修羅像」は消滅寸前だった!明治の悲劇「廃仏毀釈」とは

『豊臣兄弟!』磐覚(坂口涼太郎)のポーズが話題「阿修羅像」は消滅寸前だった!明治の悲劇「廃仏毀釈」とは:3ページ目

明治政府が打ち出した神仏分離政策

明治政府は、1868年(明治元年)から「神仏分離」を進めるための政策を次々と打ち出していきます。

その代表的なものが、以下の一連の布告です。
●1868年(明治元年)3月13日:神祇官を再興し、国家の祭祀を担う機関として位置づける。
●1868年(明治元年)3月17日:神社に奉仕していた別当・社僧などに還俗を命じる。
●1868年(明治元年)3月28日:「神仏判然令」を発し、神社から仏像・仏具などの仏教的要素を取り除き、権現・牛頭天王・菩薩などの仏教的な神号を改める。
●1869年(明治2年)7月8日:神祇官が太政官の上位に置かれ、国家の祭祀や神社行政を管掌する体制が整えられる。
●1870年(明治3年)1月3日……「大教宣布の詔」が発せられ、天皇を中心とした国家の祭祀・教化政策が進められる。
●1871年(明治4年)5月14日……神社の国家管理を強化する神社制度が整えられ、新たな社格制度が定められる。

このように明治政府は、国家の祭祀を神道中心に再編し、天皇を中心とする新たな国家体制を構築していきました。

そして、こうした神仏分離政策をきっかけとして、各地で寺院や仏像、仏具などを破壊・廃棄する動きが発生します。これが、いわゆる「廃仏毀釈」でした。

全国へ広がった廃仏毀釈!そして興福寺も危機に

初期の段階で激しい廃仏毀釈が行われた地域の一つが滋賀県です。比叡山延暦寺と深い関係にあった日吉社の神職が武装した一隊を率いて延暦寺に押しかけ、本殿に安置されていた仏像や経巻類を破壊し、焼き捨ててしまったのです。

伊勢神宮を擁する三重県では、神宮と関係が深かった慶光院をはじめ多くの寺院が廃仏毀釈の対象となり、とりわけ門前町・宇治山田にあった寺院の大半が閉鎖に追い込まれました。

そして苛烈を極めたのが、寺院の宝庫ともいえる奈良県でした。同県では春日大社の神宮寺であり、阿修羅像ポーズを見せつけたあの磐覚が在籍していた興福寺が廃寺に追い込まれます。

僧侶たちは全員還俗して春日大社の神職へと転じ、現在国宝に指定されている五重塔は、10万円弱(現在の価格)という安価で売却されてしまいました。

また、伽藍の中心になる最も重要な建物である金堂も警察の屯所に転用され、警官たちは冬の寒さをしのぐため、貴重な天平仏を割って焚火にくべたとされているのです。このとき阿修羅像も粗雑に扱われ、数本の腕が欠け落ちてしまったとも伝えられています。

さらに京都でも、神仏分離によって大きな変化が起こりました。秀吉が茶々(井上和)や秀長にお札を渡していたとされる祇園社は八坂神社へと改称され、石清水八幡宮や愛宕山大権現などでも、神仏習合の時代から続いてきた仏教的要素が取り除かれていきました。

神社に付属していた仏堂や塔なども、全国各地で失われています。上野東照宮の本地堂、久能山東照宮の五重塔、北野天満宮の多宝塔、鶴岡八幡宮の大塔、江島の三重塔、諏訪大社の五重塔・三重塔など、神社境内に存在していた仏教建築の多くが姿を消しました。

廃仏毀釈の動きは、地域によって時期や激しさに大きな差がありましたが、明治初年から数年間にわたって全国各地で続いたのです。

4ページ目 なぜ廃仏毀釈は全国へ広がったのか?

 

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