『豊臣兄弟!』磐覚(坂口涼太郎)のポーズが話題「阿修羅像」は消滅寸前だった!明治の悲劇「廃仏毀釈」とは:2ページ目
明治政府はなぜ神道を重視したのか?
1867年(慶応3年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を行うと、同年12月9日には「王政復古の大号令」が発せられます。260年以上にわたって続いた武家政権が終わり、明治新政府による新たな国家づくりが始まりました。
「王政復古」とは、文字通り「王政を復古する」、つまり天皇を中心とする政治体制を復活させることを意味します。
ところが明治新政府が目指したのは、古代の天皇を中心とした国家体制で、なんと神話上の初代天皇である神武天皇の時代を理想化した「祭政一致」の体制でした。つまり、明治天皇を神武天皇の再来として位置づけたのです。
そして、その国家づくりのなかで重視されたのが神道でした。明治政府は、天皇を中心とした国家体制を構築するため、神道を国家的な祭祀の中心に据えようとします。
そしてそのためには、奈良時代以降、「神仏習合」という形で仏教と共存してきた神社から、仏教的な要素を切り離す必要がありました。
ちなみに「神仏習合」とは、日本古来の神々と仏教が長い年月をかけて融合していった、日本独自の宗教文化です。
たとえば神々を仏や菩薩が姿を変えて現れた存在とする「本地垂迹」の考え方などが広まり、神社と寺院は密接な関係を築いていました。
そのため江戸時代までの日本では、神社と寺院が同じ境内、あるいは隣接する場所に建てられていることも珍しくありませんでした。神社を管理する寺院である「神宮寺」や、神社の祭神を守護する「鎮守社」などは、その代表的な存在です。
ただし共存とはいっても、そこには「仏が主で、神が従」という考え方がありました。これが廃仏毀釈の遠因の一つにもなったのです。

