“戦上手”だけじゃない!リアリスト・織田信長が京都上洛後に仕掛けた現代顔負けの「金融戦略」:2ページ目
商売を重視
信長の特徴は、戦争だけで勢力を広げなかったことにもあります。京都へ入ったあと、道路や河川に設けられた関所を廃止し、商業活動を活発にしました。
また伊勢湾の交易をおさえ、自治都市だった堺には代官を置いて矢銭を求めます。こうして四国から大阪、京都へつながる交易圏にも影響力を広げました。
有名な楽市・楽座も見逃せませんが、これは信長だけの政策ではありません。近江の六角氏など、ほかの戦国大名も商取引の自由化を進めていました。
近江は東海道、北陸道、琵琶湖の水運が交わる交通の要地です。京都へ運ばれる商品が集まる地域だったため、商業を重視する政策が進みやすい土地でした。
尾張から美濃、近江へ進んだ信長は、こうした経済の仕組みを実際に見てきたことになります。土地だけではなく、人・商品・金が動く仕組みを重視した点は重要です。
貨幣についても信長は政策を進めました。当時は日本国内で中国銭が広く使われていましたが、明が一三六八年に成立すると海禁が行われ、日本への銅銭輸入も難しくなります。
そこで中国銭をまねた銭も流通し、撰銭という問題が起きました。このため信長はびた銭を公認し、交換比率を定めることで貨幣の流通を安定させようとします。
さらに彼は金・銀・銅を使う三貨体制も進めました。先述した楽市・楽座にしてもそうですが、これらは信長だけの発明と見るより、当時の貨幣事情に対応した政策と考えるべきでしょう。
