「聖徳太子」は誰が作った?手柄の完全な横取り…奪われた「蘇我馬子」の功績と歴史の闇:3ページ目
「摂政」の矛盾
もう一つ気になるのが、聖徳太子の政治的な立場です。当時の大王は推古天皇で、大臣として政治の中心にいたのが蘇我馬子でした。
馬子は働き盛りの壮年で、実際の政治を担っていたと考えられます。一方、厩戸王には当時、政治参加を保証する官職がありませんでした。
ところが後世の伝承では、厩戸王に天皇の政務を代行する、ご存じ「摂政」という立場が与えられていたことになっています。
しかし、この摂政という名称の官職が中国から日本へ伝わったのは、推古天皇の時代より後とされています。矛盾していますね。
こうなると、後の時代に存在した制度を、無理やり厩戸王の時代へ当てはめた可能性も出てきます。
そんなこともあって、現在の日本史研究では、現在知られる聖徳太子の人物像の多くは後世に形成されたものであり、その太子像をそのまま史実とすることには慎重な見方が強いです。
では、遣隋使や十七条憲法の制定、冠位十二階など、聖徳太子が成し遂げたものとして現代に伝わっている政治的成果を、実際に成し遂げた人物は誰だったのでしょうか。
そこで改めて注目されるのが蘇我馬子です。
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当時の倭国は、中国へ朝貢して被冊封国となることを避けながら、一定の独立性を持つ国として認められる道を進んだと考えられています。
その国家としての基盤づくりに大きく関わった人物として、現代では蘇我馬子が評価されているのです。
聖徳太子が実在したかどうかだけを考えていては、古代史の面白さは見えてきません。
誰の功績が、なぜ別の人物のものとして語られるようになったのかを考えることで、古代国家が自分たちの歴史をどのように形づくったのかも見えてくるでしょう。
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参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC




