『豊臣兄弟!』わずか2歳で秀吉を天下人にした信長の嫡孫!三法師(織田秀信)が歩んだ数奇な生涯:3ページ目
秀吉から厚遇された織田家嫡流の血筋
1592年(文禄元年)9月、関白豊臣秀次の弟・秀勝(柊木陽太)が出兵した朝鮮の地で戦没します。すると秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えました。
こうして秀信は、「岐阜中納言」と称されるようになります。岐阜城は、秀信の父・信忠が信長から任された城でした。
同年10月には秀吉に従い参内。このときには羽柴姓・豊臣姓を許され、従三位・中納言にも叙任されました。つまり秀吉は、信長の血を最も濃く受け継ぐこの若者を、豊臣摂関家の一員として遇していたのです。
そして秀信もまた、その厚意に応えるかのように、常に豊臣大名としての立場を貫いていきます。
しかしこのことが、その後の秀信の運命に繋がっていくことになるのです。
関ケ原の戦いで豊臣に殉じた最後の織田宗家
1598年(慶長3年)、秀吉が伏見城でその波乱にとんだ63歳の生涯を閉じます。1591年からのこの8年間は、豊臣政権にはさまざまな出来事が起こりました。
朝鮮出兵はもとより、長らく秀吉を支えてきた大和大納言秀長(仲野太賀)と千利休の死。そして、秀頼の誕生と秀次の死。こうした動乱のなかで、秀信はつねに秀吉サイドにいたと考えられます。
そして1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発。秀信は豊臣家を守る立場から西軍に味方し、美濃・尾張を保つため岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦しました。
その戦い振りは凄まじく、激しい攻防のなか多くの家臣が討死し、秀信自身も自害しようとします。しかし、攻め手の池田輝政の説得で、ついに降伏しました。
徳川家康は当初は秀信を許さない方針を示すものの、福島正則(松崎優輝)が自らの武功と引き換えに助命を嘆願。しかし一命は救われたものの、美濃国13万石は改易処分となりました。
美濃を追われた秀信は、高野山での蟄居生活に入ります。そして関ケ原の戦いから5年後の1605年(慶長10年)5月、わずか26歳でその生涯を閉じました。一説には自害であったとも伝えられています。
清州会議では、幼い三法師の存在が秀吉に天下への道を開きました。そして成長した秀信は秀吉からの厚遇に応え、最後まで豊臣家への忠義を貫きました。
織田信長の嫡流(嫡孫)でありながら、それに取って代わった秀吉を恨むことなく短い生涯を全うした秀信。そこには単なる悲劇では片付けられない、貴公子らしくどこか清々しさを帯びた印象を感じられるのです。
※参考文献
黒田基樹著 『羽柴を名乗った人々』角川ソフィア文庫


