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『豊臣兄弟!』わずか2歳で秀吉を天下人にした信長の嫡孫!三法師(織田秀信)が歩んだ数奇な生涯

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清州会議後も続いた三法師争奪戦

こうして三法師は、わずか三歳で織田家の家督を継ぎ、近江国中郡20万石を与えられました。

ただ所領に関しては、本能寺の変直前の織田領は800万石を優に超えていたということから、20万石は余りにも少ないとも言えなくもないのです。

ともあれ清州会議の取り決めにより、三法師は安土へ戻ることになりました。ところがここで、早くも会議の取り決めに破綻が生じます。

秀吉の動向を訝しんだ信孝が、勝家と共謀して三法師を岐阜城に留め置いて監視を続けたのです。おそらく信孝としては、三法師を安土に戻せば、秀吉に利用されると考えたのでしょう。

こうして秀吉と信孝・勝家は激しく対立することになります。この三法師をめぐる確執は、1583年(天正11年)4月の賤ヶ岳の合戦へと発展し、その後、勝家も信孝も秀吉の手によって葬り去られることになるのです。

織田家当主となるも、豊臣政権の一大名へ

勝家・信孝の滅亡後、三法師の後見には、織田家の家督代理となった信雄が就任。しかし信雄もやがて秀吉と対立するようになります。

このころ、立場的には秀吉は信雄に臣従するという形をとっていました。しかし、信雄を傀儡として実権は秀吉が握っていることは、誰の目から見ても明らかであったのです。

このような状況のなかで信雄は徳川家康(松下洸平)と同盟を結び、小牧・長久手の戦いが起こります。だが、信雄は戦いの帰趨が定まらないうちに秀吉と単独和睦してしまいました。

そして1585年(天正13年)、秀吉は朝廷から関白宣下を受け、翌年には豊臣姓を賜り、太政大臣に任ぜられます。

こうなると秀吉と織田家の地位は、もはや完全に逆転してしまうのです。

1590年(天正18年)、秀吉は関東に覇を唱えた北条氏政氏直(西山潤)父子を征伐し、事実上の天下統一を成し遂げます。その所領替えをめぐる問題で信雄が改易されると、すでに元服して織田秀信と名乗っていた三法師が、改めて織田宗家の当主に据えられました。

とはいえ、秀吉が天下人として君臨する世では、秀信も豊臣政権下の一大名として生きるほかなかったのです。

3ページ目 秀吉から厚遇された織田家嫡流の血筋

 

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