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朝ドラ「風、薫る」りんの運命の相手になる?横沢公輔(井上祐貴)のモデルとされる木下尚江の生涯

朝ドラ「風、薫る」りんの運命の相手になる?横沢公輔(井上祐貴)のモデルとされる木下尚江の生涯:4ページ目

東京で社会の不正を追及する新聞記者となる

明治32(1899)年、再び上京した尚江は『毎日新聞』に入社して新聞記者として新たな歩みを始めています。

ここで尚江は、廃娼問題、政官界の汚職、普通選挙、労働者問題などを取り上げます。
なかでも重要だったのが、足尾銅山鉱毒事件です。
足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の農地や生活を破壊していました。尚江は田中正造らと関わりながら、被害民の側に立って記事を書きました。

明治37(1904)年、日露戦争が勃発。日本国内では開戦を支持する世論が高まり、新聞も戦勝を求める論調に傾いていきます。

そのなかで尚江は、戦争によって命を奪われるのは、権力者ではなく一般の兵士や民衆であると訴えました。
尚江は毎日新聞において小説『火の柱』を連載。同作は、政治、軍国主義、宗教、貧困などの問題を小説の形で描いた作品です。尚江は論説だけでなく、物語によっても戦争の矛盾を伝えようとしました。

続いて『良人の自白』を発表し、社会制度と人間の内面の葛藤を描いています。

明治38(1905)年には、石川三四郎らと雑誌『新紀元』を発行。しかし政府の監視は強まり、平民社も解散へ追い込まれます。

明治43(1910)年、尚江は岡田虎二郎の岡田式静坐法に入門。岡田式静坐法は、姿勢と呼吸を整えて静かに坐り、心身の安定を求める修養法です。
尚江は静坐によって自分の心を見つめ直し、宗教や人間の生き方について考えるようになりました。
やがて仏教思想にも関心を深め、『日蓮論』『法然と親鸞』などを著述。政治運動の表舞台からは退きましたが、著述と思索を通じた活動は続いていました。

分泌活動の一方で、足尾銅山鉱毒事件に取り組んだ田中正造との関係は続きました。
大正2(1913)年、田中正造が病床に伏すと、尚江はその最期に立ち会っています。
のちに尚江が著した『臨終の田中正造』には、権力や財産を求めず、被害民のために生涯を捧げた田中への敬意がにじんでいます。

尚江の著作のなかには発売禁止となったものもあります。それでも尚江は、弱い立場に置かれた人々を見つめ、民主主義と非暴力の大切さを書き残しました。

昭和12(1937)年11月5日、尚江は世を去りました。享年68。

木下尚江は、政治家として高い官職に就いた人物ではありません。

また、公娼制度、鉱毒被害、労働問題、戦争といった、当時の国家や社会が目を背けがちだった問題を、新聞、演説、小説によって世に問い続けた生涯でした。
その歩みは、武士の時代から市民の時代へ向かう近代日本に、言葉と良心によって人間の尊厳を守る橋を架けた歩みだったと言えるでしょう。

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