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朝ドラ「風、薫る」りんの運命の相手になる?横沢公輔(井上祐貴)のモデルとされる木下尚江の生涯

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東京で法律を学び、新聞記者となる

明治19(1886)年、尚江は法律を学ぶために上京しました。

尚江が知りたかったのは、単に裁判や契約に使われる法律ではありません。
国王のような最高権力者であっても裁くことのできる法律とは何か。権力と法はどのような関係にあるのか。その答えを求めていたのです。

やがて尚江は、東京専門学校(現在の早稲田大学)の邦語法律科で学び始めました。
東京専門学校では法律だけでなく、政治や議会制度についても学ぶことができました。尚江は学生が議員や政府委員に扮して討論する「擬国会」にも関わり、演説と議論の力を磨いていきます。

明治21(1888)年、尚江は東京専門学校邦語法律科を卒業。松本に帰郷して、同地の『信陽日報』の記者となりました。
当時の新聞は、単に出来事を伝える媒体ではありません。政治に対する意見を示し、地域の人々を動かす力を持っていました。

尚江は長野県庁の移転問題などを積極的に取り上げ、二十歳前後の若さで地方政治の議論に加わります。その文章には勢いがあり、尚江の加入によって紙面に活気が生まれたと評価されました。

しかし、明治23(1890)年には信陽日報は廃刊。尚江にとって大きな挫折となります。

新聞を失った尚江は、深い失意のなかでキリスト教に傾倒。やがて禁酒運動や廃娼運動に参加します。

廃娼運動とは、公娼制度を廃止し、売春を強いられていた女性たちを救おうとする運動です。当時、公娼制度は行政によって認められ、女性の人権よりも社会秩序や税収が優先されることがありました。

尚江は、法律上認められている制度であっても、人間の尊厳を傷つけるならば改めなければならないと考えました。
この姿勢には、キリスト教の人間観と、少年時代から抱いていた権力への疑問が結びついていたと考えられます。

3ページ目 新潟県高田で大関和と運命的な出会い

 

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