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【豊臣兄弟!】加藤清正や福島正則の陰に隠れた名将…“賤ヶ岳の七本槍” 糟屋武則がたどった生涯

【豊臣兄弟!】加藤清正や福島正則の陰に隠れた名将…“賤ヶ岳の七本槍” 糟屋武則がたどった生涯:2ページ目

天下一統後も活躍するが……

北条氏の滅亡によって天下一統が果たされた後は、増田長盛らと共に検地を行ったり、秀吉の代官を務めたりなど文治方面に力を尽くしています。

文禄元年(1592年)の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では片桐且元らと目付を務め、海を渡って朝鮮半島に乗り込みました。

そして石田三成らと共に御代官衆の一人として、占領地域の統治に心を砕いたと言います。また第一次晋州城攻めで武勇を奮い、敗れたとは言え日本武士の面目を施しました。

翌文禄2年(1593年)に日本へ帰国すると、また代官を務めたり伏見城の普請に加わったりしています。

やがて文禄4年(1595年)に秀吉の養子である豊臣秀次(三好吉房と秀吉姉ともの長男)が失脚すると、武則はその身柄を一時与かりました。そして高野山へ送られた秀次が切腹すると、武則は1万2千石に加増され、大名となったそうです。

加増の名目は「賤ヶ岳での再評価」ということでしたが、もう十数年も経ってからこの恩賞は違和感が否めません。秀次事件に何か関係があったのでしょうか。

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣政権が徳川家康派(東軍)と石田三成派(西軍)に二分され、関ヶ原の合戦につながっていきます。

武則は家康の秘めたる野望(豊臣政権乗っ取り)を警戒して、三成率いる西軍に与しました。が、武運拙く敗れ去り、武則は改易(かいえき。所領を全没収)されてしまったのです。

その後、武則がどんな最期を遂げたかについては諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。

終わりに

今回は賤ヶ岳の七本槍に数えられた糟屋武則について、その生涯を駆け足で紹介してきました。

清正や正則に比べて影が薄い印象が否めませんが、高い能力と活躍ぶりからもっと評価されてもいいのではないでしょうか。

果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では誰がキャスティングされるのか、楽しみにしています。

※参考文献:

  • 『加古川市誌 第1巻』加古川市、1953年6月
  • 糟屋正勝『播磨糟谷家の系譜』みるめ書房、1993年6月
  • 高柳光寿ら『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年10月
 

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