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“甲賀忍者”の読みは「こうが」じゃない!正式な読みと伝説の忍者集団の正体と起源を解説

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甲賀郡には大小200ほどの陣地が存在しました。これは城というよりは、丘の上に土塁と館を備えた構造で、1辺50〜100mの正方形の丘に高さ3mの土塁をめぐらせ、攻め落としにくくなっていました。

周囲に同じような陣地が点在していたので、敵は主力の位置を特定しにくいという利点もあったようです。

また甲賀の山々には薬草が多く、薬僧の多賀坊朝熊坊の系統が薬と山岳信仰を広めていました。

もともと甲賀忍者の起源は修験道にあり、飯道山で修行した山伏や落ち武者が地侍集団を形成したことにはじまります。それが山岳信仰とも深くつながったのでしょう。

山伏は全国をめぐるため、甲賀忍者は情報収集に優れており、他国に潜入するときも山伏に扮して疑われにくかったようです。

その後の甲賀忍者

1487年の長享・延徳の乱では六角家とともに戦い、亀六ノ法などのゲリラ戦で活躍しました。特に功績を挙げた21家は甲賀二十一家として後の中心勢力となります。

六角家が滅亡した後はかの織田信長に仕え、のちに秀吉・家康へと主を変えました。

伏見城の戦いでは1,800名が籠城し奮戦。家康はその忠義を高く評価し、甲賀百人衆を編成して江戸城の鉄砲隊に任命しました。

彼らの活躍はその後もまだまだ続きます。1637年の島原の乱では甲賀忍者300名が参陣を志願し、10名が諜報任務に就きました。これが甲賀忍者の歴史上、最後の大規模な実戦となりました。

甲賀の読み「こうか」は古代の豪族・鹿深氏に由来するとされています。

今でも、甲賀地域には油日神社や飯道山など忍者ゆかりの地が多く、2017年には伊賀・甲賀が「日本遺産」に認定され、リアル忍者文化の発信地として現在も親しまれています。

武士の身分を取り戻せ!明治維新の戦場を駆け抜けた甲賀忍者たちの武勇伝【上】

明治維新と言えば、近代化された新政府軍と、旧態依然とした(というイメージの)幕府軍の激突した戊辰戦争(ぼしんせんそう。慶応四1868年~明治二1869年)が強くイメージされますが、その近代化された新政…

参考資料:朝日新聞
刀剣ワールド
一般社団法人 東京滋賀県人会

 

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