幕末の決定的瞬間を描いた『大政奉還図』実は矛盾だらけ!あの有名絵画に潜む奇妙な違和感:2ページ目
さまざまな矛盾点
一般的には、あの絵は「慶喜が諸大名を集めて大政奉還の意思を宣言している場面」だと解釈されています。
しかし、この解釈にも多くの矛盾が潜んでいます。絵の中に描かれた部屋の様子を細かく見てみましょう。
障壁画には桜が描かれ、奥には違い棚が見えます。この特徴から、この部屋は二条城の黒書院であると推定されます。壁の絵は狩野尚信による『桜花雉子図』の特徴と一致するからです。
しかし、ここで物理的な問題が生じます。
黒書院の広さは約五十六畳しかありません。一方で、絵には部屋いっぱいに溢れるほどの武士たちが描かれています。これほどの人数を収容するには、九十二畳ある大広間でなければ無理があります。
しかし大広間の障壁画は松の絵であり、部屋の構造も絵とは異なります。
つまり作者である邨田丹陵は、黒書院の装飾と大広間の広さを混同したか、あるいは意図的に合成して描いた可能性が高いのです。
当時のスケジュールと照合すると…
さらに、当時の正確なスケジュールを確認すると、さらに決定的な矛盾が浮かび上がってきます。
二条城に残る記録によれば、大政奉還に至る経緯は次の通りです。
①10月11日、幕府は諸藩に対して13日に登城するよう命じました。
②10月12日、慶喜は京都にいる松平容保、松平定敬ら幕府の役人たちに大政奉還の決意を伝えます。
③10月13日、二条城の大広間には集められた在京十万石以上の諸藩の重臣たちが待機していました。
しかし、ここで彼らの前に現れて諮問を行ったのは慶喜本人ではなく、老中である板倉勝静でした。
板倉が慶喜の決意書を読み上げて回覧し、それに対して藩士たちが賛同したというのが真実です。
そして翌14日に大政奉還の上表が提出され、15日に勅許が下りました。
つまり、もしあの絵が13日の会議を描いたものだとすれば、場所は大広間でなければなりませんし、そもそも慶喜はあの場にはおらず、老中が仕切っていたはずなのです。
慶喜が諸大名を前に演説をしたという事実は記録にはありません。
つまりあの有名な絵画は、明治時代以降に描かれた「歴史画」に過ぎず、作者による誇張盛り込まれた芸術作品です。
黒書院の優美な内装と、大広間での会議の規模感、そして慶喜が主導したという劇的なイメージを一枚の絵の中に再構成したものと言えるでしょう。
こうした理由から、近年の教科書では、誤解を招きかねないこの『大政奉還図』の掲載を見送るケースが増えています。
かつて私たちが歴史的真実だと思って眺めていたあの光景は、あくまでイメージ図に過ぎなかったのです。
参考資料:浮世博史『くつがえされた幕末維新史』2024年、さくら舎
画像:photoAC,Wikipedia

