朝ドラ「ばけばけ」実際に小泉八雲と親交、恋愛関係は?江藤リヨ(北香那)のモデル・籠手田よし子の生涯:3ページ目
女性教育者として朝鮮半島に渡る
その後のよし子については、長く断片的な情報しかありません。
明治24(1891)年、父・安定が新潟県知事に就任。明治29(1896)年には滋賀県知事を再任されます。
明治30(1897)年には安定は貴族院議員に選出されました。しかし明治32(1899)年に安定は世を去ります。
この間、おそらくはよし子も安定に付いて赴任先に随行したと考えられます。
明治34(1901)年4月、よし子は長崎県士族・近藤範治(のりはる)と結婚。29歳での結婚は当時としては異例のものでした。
結婚後、よし子は夫とともに朝鮮半島の港町・元山(ウォンサン)へ渡ります。
ふたりはそこで 源興学校 という日本語学校を設立し、現地の人びとに日本語教育を行いました。
はじめはよし子自身が小さな塾を開き、日本語を教え始めたものです.その活動が広がり、夫婦で学校として整備していったと伝わります。
運営は日韓双方の官民有志から援助を受けながらのものでした。
女性が海外で教育機関の設立・運営に直接関わるのは、当時としてはかなり珍しいケースでした。
学校の表向きの責任者は夫の範治でしたが、実際には、授業や運営の中核をよし子(近藤淑子)が担っていたと伝えられています。
夫・範治が戦地に赴いているあいだも、彼女が学校を支え続けたという証言もあり、いわば「教育者であり経営者」としての側面が浮かび上がります。
