呪詛など効かぬ!占いを嘲笑い合理で勝つ――戦国最初の合理主義者・朝倉孝景の智将ぶりが凄まじい:2ページ目
呪詛すら通じぬ合理主義者
孝景の冷静さを象徴するのが、興福寺との争いです。領地問題で寺の怒りを買った彼は、ついに「呪詛」をかけられます。
普通なら青ざめて祈祷師を呼ぶところ、孝景は「ならば名を変えよう」と言って、あっさり改名。その後も何事もなく越前を治め続けたため、人々は「呪いすら効かぬ男」と噂しました。
これは単なる逸話ではなく、彼がいかに現実的な思考を持っていたかを示す象徴的な出来事です。
戦で国を手に入れた孝景でしたが、そのあとは武力ではなく文化で国を豊かにしました。
城下町・一乗谷を整備し、京都風の町並みを築いたのです。学者や職人、連歌師などを各地から招き、「越前の小京都」と呼ばれるほどの文化都市に発展させました。
戦国の世にあって、武だけでなく学問や芸術を重んじたその姿勢は、後の戦国大名にも大きな影響を与えています。
家訓に刻まれた“合理の哲学”
孝景が残した「朝倉孝景条々」には、彼の考え方がはっきり記されています。
そこにはこうあります。
「合戦で方角や吉日を選ぶ者は愚かなり」
つまり、占いに頼らず、状況を冷静に見て判断せよ、という教えです。さらに、「無能な者を重職につけてはならぬ」とも述べ、実力主義の政治を理想としました。この思想こそ、彼が“戦国時代の合理主義者”と呼ばれる理由でしょう。
理性的で冷徹な印象のある孝景ですが、実際は情に厚い人でもありました。戦では兵と同じ食事をとり、負傷者を見舞い、戦死者の死を悼んだと伝えられます。兵たちは彼を「殿ではなく仲間」として慕い、朝倉軍は強固な結束を誇りました。
知略と人情を兼ね備えたリーダー――まさに、戦国の理想像といえるでしょう。
朝倉孝景は1481年、54歳でこの世を去ります。しかし、彼の遺した合理と文化の精神は、後の孫・朝倉義景の代へと受け継がれ、一乗谷の黄金期を築きました。
呪いを恐れず、占いを信じず、常に現実を見据えた彼の姿勢は、いまの時代にも通じます。
「信じるのは己の判断力」――
戦国の混乱を理性で切り抜けたこの男こそ、時代を先取りした本物の知将だったのです。
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参考文献
