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朝ドラ「ばけばけ」母国での壮絶な過去…レフカダ・ヘブンのモデル、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)苦難の前半生

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困窮と漂白の旅の末に辿り着いた国

ハーンの人生には、さらなる試練が待ち受けていました。

1866年、父・チャールズが西インドからの帰国途上で病死。加えて大叔母・サラが破産を遂げてしまいました。

翌1867年、ハーンはやむなくダラム大学を退学。1869年にイギリスのリヴァプールから移民船に乗って、アメリカ合衆国のニューヨークへ渡ります。この時、ハーン19歳でした。

しかし当時のハーンは、所持金もなく頼れる家族もいない状況です。シンシナティへへ向かったハーンは、ホームレス同然の生活を送ることとなりました。

やがて印刷屋のヘンリー・ワトキンの世話になることになります。ここでハーンは印刷術を獲得し、ワトキンを終生慕うこととなります。

1871年、大叔母のサラが死去。送金されるはずだった遺産500ポンドが届かず、以降アイルランドの親戚と縁を切る道を選びます。

しかしハーンは、持ち前の文章術を磨き上げ、さらなる飛躍を遂げていきます。

1874年、ハーンはシンシナティ・エンクワイアラー社の正式社員として勤務。週刊誌の創刊や事件記事のルポで名を挙げました。

その後、シンシナティ・コマーシャル社タイムズ・デモクラット社を経て記者としての経験を積みました。

1882年、母・ローザがコルフ島の病院で永眠。ハーンは完全に天涯孤独の身の上となってしまいました…

意気消沈していたハーンですが、むしろ悲しみを忘れすように仕事に没頭。外国文学の出版物を出したり、ニューオリンズでの博覧会(1885年)の記事を書いていきます。

このとき、ハーンの将来を決定づける出会いがありました。

博覧会の日本館の展示に興味を示したハーンは、日本政府から派遣された服部一三と面識をもつことになります。

神話や民話に興味を抱いたハーンは、記者魂も相まってか、まだ見ぬ日本への興味で沸き立ちます。

1890年(日本では明治23年)、ハーンはバンクーバーから日本へ向けて出港。横浜に上陸して日本の土を踏みました。

来日後、ハーンは服部一三やバジル・ホール・チェンバレンの助力で、島根県の松江にある島根県尋常中学校および師範学校の英語教師の職を得ます。

ハーンは8月松江に着任。9月には日本人以外としては初めて、出雲大社への昇殿を果たしています。

明治24(1891)年、ハーンは身の回りを世話する女性を雇います。生涯の伴侶となる小泉セツでした。

セツとは学校幹部で通訳も務めた西田千太郎らの紹介で知り合ったようです。セツが住み込みの家政としてハーンの家に入り、ハーンと徐々に親しくなります。

家族に縁が薄かったハーンは、故郷から遠く離れた日本で、大切な人と出会うことが出来た瞬間でした。

 

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