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【べらぼう】歌麿の妻・きよの命を奪った瘡毒(梅毒)とはどんな病気?感染者の悲惨な末路と歴史

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現代も続く梅毒の脅威

ちなみに梅毒という呼び名については、疱瘡がヤマモモ(楊梅)の果実に似ていたために楊梅瘡(ようばいそう)と呼ばれ、それが次第に「瘡毒」「梅毒」となったと言います。

他にも「黴瘡(ばいそう。黴菌による疱瘡)」が音の同じ「梅瘡」となり、また「黴毒(ばいどく)」が「梅毒」になったとも言われました。

一時期は症状が似ているハンセン病(性感染症ではない)と混同されたこともあり、ハンセン病を患った神父が姦淫の疑いを受けたこともあったそうです。

日本で初めて梅毒検査が実施されたのは万延元年(1860年)。ロシア海軍の要請を受けて、長崎海軍伝習所の松本良順(まつもと りょうじゅん)らが丸山遊郭で遊女たちの梅毒検査を実施しました。

日本に梅毒がもたらされて、実に三世紀半が経ってからのことです。

明治時代に入っても梅毒は猛威を振るい、例えば明治43年(1910年)には約10,160名の死者を出しました。

当時の死因として多かった結核・肺炎・脳出血・癌に続いて5番目に多くの犠牲を出したことになります。

21世紀の令和に入っても梅毒感染者は後を絶たず、令和4年(2022年)には現在の調査方法で初めて年間1万人超の感染者が確認されました。

500年以上にわたる日本人と梅毒の戦いは、まだ終わりが見えてきません。

終わりに

今回はきよの命を奪った梅毒について、その歴史をたどってきました。

彼女は我が身を売って暮らしを立てざるを得なかったことから、悲劇的な最期を迎えてしまいます。

果たして再び狂気に陥った歌麿を、蔦重は救うことができるのか……歌麿が幸せを取り戻すことを、きよも願っているのではないでしょうか。

※参考文献:

 

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