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朝ドラ「ばけばけ」虚しく孤独な最期…雨清水三之丞(板垣李光人)のモデル・小泉藤三郎の生涯

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姉・セツと小泉八雲の「外国人結婚願」

藤三郎は、決して不甲斐ない弟という存在だけであったわけではありません。

歴史資料の中で、藤三郎の名前と活躍がはっきりと記された事例があります。それが明治28(1895)年10月3日付で、戸主・小泉セツが松江市役所へ提出した、小泉八雲ラフディオ・ハーン)との「外国人結婚願」です。

当時、日本において国際結婚は珍しいことでした。婚姻届が出されるようになること自体、もう少し後のことです。

前書には「本家小泉藤三郎」と連名での提出と記録され、家の代表=戸主(姉・セツ)と本家筋の弟(藤三郎)が手続きを担ったことがわかります。

藤三郎は姉であるセツのために、保証人的なこともしていた…そう思うと朝ドラの向こう側が見えてくる気がします。

同時に、セツは実母・小泉チエに対して資金援助をしていました。この援助が、結果として藤三郎の生活も支える形になります。

しかしやがて、義兄・八雲から不興を買うことになります。

明治29(1896)年、セツと八雲の夫婦は東京に引っ越すにあたり、小泉本家の墓参りに行った時のこと。

本来あるはずの墓はなく、そこにはへこんだ土地だけが残されていました。不審がって僧侶に尋ねると、随分前に藤三郎が墓所を売却したと言います。

のちに藤三郎が東京を訪ねると、八雲は叱責します。

「あなたは武士の子です」と前置きして「なぜ墓の前で腹を切らなかったのか」と糾弾。帰るように促したと伝わります。

一連の困窮と軋轢により、藤三郎が士族の家の男子として「働き口」「家督」「面目」の三重苦にさらされていたことがわかります。

大正5(1916)年、藤三郎は45歳での世を去ります。その最期は孤独死で、空き家で発見されたと伝わります。

著名人の陰に隠れがちな一個人の苦渋を通じ、地域社会と家(イエ)が近代へ折り合っていく難しさを生々しく語ってくれます。

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