『べらぼう』松平定信(井上祐貴)を転落へと追い詰めた事件とは?正論の押し付けが仇となり一橋治済とも対立

白河の 清きに魚の すみかねて
もとの濁りの 田沼こひしき

【歌意】白河(松平定信)は清廉潔白すぎて息苦しい。少しくらい濁っていても、田沼(意次)の時代が恋しいなぁ……。

そんな狂歌が世に出回り、寛政の改革(天明7・1787年〜寛政5・1793年)は一定の成果を収めつつも幕引きとなりました。

松平定信(井上祐貴)はなぜ老中の職を退いたのでしょうか。また、引退後にどのような晩年を送ったのかも気になります。

今回は定信失脚の一因となったエピソードを紹介。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」を楽しむご参考にどうぞ。

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筋を通す難しさ「尊号一件」

定信失脚のキッカケとしては、尊号一件(そんごういっけん)が挙げられます。

尊号一件とは、当時の調停で光格天皇(こうかくてんのう。第119代)が実父である閑院宮典仁親王(かんいんのみや のりひとしんのう)に対して、太上天皇(だいじょうてんのう。上皇)の尊号(称号)を奉ろうとしたのを、定信が反対した件です。

太上天皇は皇位にあった方の尊号であり、天皇陛下の父親であったからと言って奉るべきではありません。

結局、尊号については渋々ながら取り下げる形になりましたが、定信は徳川家斉(第11代将軍)・一橋治済(家斉実父)との間に禍根を残してしまいます。

なぜなら家斉は、実父である治済に「大御所」の尊号を贈ろうとしていたからです。

天皇陛下に対して「実父だからと上皇の尊号を奉るのはダメ」と言いながら、「実父だから大御所の尊号を贈りました」では筋が通らないでしょう。

定信とすれば、治済は自分を白河藩へ追いやった張本人。ただでさえ将軍の実父として権勢を振るっているのに、大御所なんかになられてはたまりません。

そんな事情もあってか定信は筋を通したのですが、家斉と治済の不興を買ってしまったのでした。

家斉に斬られかけるも……。

ある時、家斉は真っ向から正論をぶつけてくる定信に怒り狂い、小姓から太刀を奪って斬りかかろうとしたそうです。

自分たちの我田引水を指摘され、よほど図星だったのかも知れません。

すると近くに控えていた御側御用取次の平岡頼長(ひらおか よりなが)が、間髪入れずに声を上げました。

「越中(定信)殿、上様が御手ずから太刀を下さる。速やかに拝領なされ!」

白刃を抜き放ったのは、見事な刀身を披露するため……ということにしたのです。

不意を衝かれて拍子抜けした家斉は、そのまま定信に太刀をくれてやったのでした。

とまぁ平岡の機転で生命こそ助かったものの、定信はほどなく失脚の憂き目を見ます。

2ページ目 寛政の改革も道半ばで帰国 〜 定信の晩年

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