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包囲された城に”踊りながら入城”?幕末の会津戦争で実際にあったとんでもない伝説の奇策とは

包囲された城に”踊りながら入城”?幕末の会津戦争で実際にあったとんでもない伝説の奇策とは:2ページ目

奥羽越列藩同盟

会津藩への赦免嘆願をキッカケに、会津藩・仙台藩・米沢藩の間で結束力が誕生し、奥羽越列藩同盟を結成します。その後、嘆願書の提出や朝廷に建白をおこなうなど会津藩の存続に尽力。しかし新政府には、会津藩への赦免は受け入れてもらえませんでした。

そのようななか、仙台藩士が新政府の官僚である世良修蔵を殺害したことがキッカケで、会津戦争が勃発。多くの死者を出す、国内最大級にして最悪の内戦となったのです。

彼岸獅子

会津若松城

会津戦争では新政府軍が有利な状態となり、奥羽越列藩同盟は追い詰められます。

若松城に逃げ込みたい奥羽越列藩同盟ですが、若松城周辺はすでに新政府軍に包囲されていました。そこで何を思ったか、会津藩の山川浩は「踊りながら入城」しようと提案。会津伝統の彼岸獅子に変装して、笛と太鼓を先頭に堂々と入城したといいます。

新政府軍が攻撃しなかったことについては、「突然のことで呆気にとられたのではないか」と言う説と「会津伝統の踊りの奇怪さに手が出さなかったのではないか」と言う2つの説があります。

入城後の奥羽越列藩同盟

攻撃されることなく入城を果たした奥羽越列藩同盟ですが、最終的には長期にわたる籠城生活の末に食料が尽き、降参を余儀なくされました。

追い詰められ、四面楚歌となったときには山川浩のように奇抜な策を実行してみるのも、ひとつの手段かもしれません。

 

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