21歳 悲劇の死別。幕末、皇女和宮が一途に愛した徳川家茂に詠んだ哀しくも美しい和歌に涙:2ページ目
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和宮は家茂の死を大変嘆き悲しみ、その西陣織の反物を袈裟に仕立てて和歌を添え、増上寺に寄贈しました。
「空蝉の 唐織衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」
立派な西陣織の贈り物も空しいばかりでどうすればいいのしょう、おしゃれしたのも大好きなあなたがいたからだったのに・・・。
和宮は他にも、「許されるならば三途の川を一緒に渡りたい」といった意の和歌を詠んだようです。和宮は二十一歳の若さで落飾し、以後は「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗ります。
静寛院宮となった彼女は、幕末の情勢不安の中、「御所に帰ってきなさい」という実家の説得を断り、家茂の愛した徳川家を守るために尽力します。そして姑の天璋院(篤姫)と協力し、江戸城総攻撃の回避に成功するのです。
明治時代になってからは明治天皇の叔母として尊重された静寛院宮でしたが、明治10年、奇しくも家茂と同じ脚気の病により、32歳の若さで亡くなってしまいます。「将軍様のおそばに」が遺言だったといいます。
静寛院宮は遺言通り、家茂の眠る増上寺で、まさに家茂の隣に埋葬されました。昭和の改葬時もその遺言は守られ、今でも夫婦は仲良く隣に眠っています。
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