「切腹せよ」酒に酔った失言で家臣を死なせた名将・福島正則の悲劇と不器用な終幕【後編】:2ページ目
大名としての失脚 幕府の不信を買う
時は1619年。徳川家康が亡くなって、まもないころのことです。正則が住んでいた広島のあたりを、大きな台風が通りぬけ、広島城が大きなダメージを受けました。本丸(二の丸や三の丸という、城の中心部)や石垣が、あちこち崩れてしまったのです。
それを見た正則は、「このままではまずい」と思い、城の修理を始めました。じつは、工事を始める前に幕府に知らせてはいたのですが、きちんとした許可が出る前に動いてしまったため、「勝手に修理をした」として問題になってしまいました。
しかも、正則は前にも「城造りのルール」をやぶっていたことがあったのです。全国の大名に対して「一国につき城はひとつまで」と決められていたのに、新しく城をつくったことを、毛利家という別の大名が幕府に伝えていました。
そのため、今回の修理も「またやったのか」と見られてしまい、幕府は厳しい態度をとることになります。
正則は、「屋根が雨でぬれていたから、しかたなく直しただけです」と説明します。実際に江戸へ行って、謝ることもしました。そして、幕府からは「本丸以外のところもちゃんと壊すように」と命じられました。
ところが、正則は本丸だけを取りこわして、二の丸や三の丸には手をつけませんでした。それが、また問題になります。「約束をちゃんと守っていないじゃないか」と言われたのです。
さらに悪いことが重なります。人質として江戸に行くことになっていた息子・忠勝(ただかつ)の出発が遅れたのです。しかも正則は、「あれこれ聞かれても、親が決めることだ」とはっきり答えませんでした。これで幕府の怒りは、さらに大きくなります。
とうとう将軍の徳川秀忠が怒り、正則の家へ二人の使者を送ってきました。使者が伝えたのは、とても重い処分です。
「今の領地、安芸と備後の50万石はすべて取り上げる。かわりに、信濃(今の長野県)と越後(今の新潟県)にある、あわせて4万5,000石だけを治めるように」
このようにして、正則は大きな領地を失い、小さな土地にうつることになったのです。いままでの努力や名誉が、一気に消えてしまったようなものでした。
晩年の正則
その後、正則は息子の忠勝に家をゆずって、身を引きます。そして、出家して「高斎(こうさい)」という名前を名のりました。ようやく、静かな暮らしを送る…と思われましたが、そううまくはいきませんでした。
次の年、1620年。まだ若かった忠勝が、病気で亡くなってしまいます。正則は深く悲しみ、自分の領地のうち2万5,000石を幕府に返上しました。
武功にあふれ、名将として称えられながらも、ひとりの人間としての弱さを抱え、失敗と後悔を繰り返しながらも生きた姿。その不完全さこそが、福島正則という人物を、ただの「偉人」ではなく、「語り継がれる人間」にしているのかもしれません。
参考文献:南條範夫 著『大名廃絶録』(1964 人物往来社)