朝ドラ「あんぱん」嵩の弟・柳井千尋(中沢元紀)のモデルである柳瀬千尋の、駆逐艦・呉竹での最期:2ページ目
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バシー海峡での最期
やがて千尋に運命を一変させる瞬間が訪れます。
昭和19(1944)年12月下旬、乗船していた呉竹がマニラ脱出船団護衛のため台湾バシー海峡へ向かいました。
同月30日、米潜水艦「レザーバック」の雷撃三発が呉竹に命中。艦はわずか数分で沈没しました。乗員約220名のうち71名が戦死、千尋もその一人でした。
翌昭和21(1945)年春、柳瀬家に木札が一枚入った骨壷が届きます。木札には「海軍中尉 柳瀬千尋」とありました。
この「空の骨壷」は、兄を終生苛む象徴となり、やなせ氏は「名前のように千尋の深海に沈んだ」と書き残します。
やなせ氏はフィリピン戦線から帰還後、弟の死を知り「他者を救うには自己犠牲が要る」と痛感したと語ります。アンパンマンが自らの顔を分け与える場面は、千尋の「見えない献身」への鎮魂でもあったのかもしれません。
晩年のエッセイでやなせ氏は「絶望の隣に希望がある」と繰り返します。それは、戦場で砕けた弟の未完の未来を、創作で生かし続ける決意の言葉でした。
「誰かを救う力」は海峡を越えて
一部記事では「千尋=回天隊員」とする記述が散見されますが、史料的裏付けは皆無です。戦後早期の回想が混線したまま流布したのが原因で、近年の研究で否定されました。
呉竹乗員71柱を祀る慰霊碑は大分県佐伯市と高知市に建立され、海自OBらが毎年献花を続けています。
朝ドラ放送を契機に参拝者が増え、「柳瀬千尋」の刻名に手を合わせる若者も目立ちます。
柳瀬千尋が残したのは、戦果でも勲章でもなく、兄・嵩の胸に灯った「哀しみから生まれるやさしさ」でした。彼の23年という短い人生が、いま私たちの子どもたちに届くヒーロー像を支えているのかも知れません。
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