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【大河べらぼう】新章突入!平賀源内が去った後、史実を基に次なる局面を考察〜田沼意次 全盛と蔦重の成長〜[前編]

【大河べらぼう】新章突入!平賀源内が去った後、史実を基に次なる局面を考察〜田沼意次 全盛と蔦重の成長〜[前編]:2ページ目

松平定信が蔦重の後半生の障害に

田沼意次に代わって老中となり、幕府の経営を担ったのが、陸奥白河藩主・松平定信(寺田心)です。定信は、田沼意次を嫌悪していた一方で、意次に賄賂を贈るなどして“幕政への参加を虎視眈々と狙っていた”とされています。

その政治理念は、田沼時代に特徴的だった重商主義を一掃し、従来の重農主義に戻すことにありました。

8代将軍吉宗の孫であり、御三卿田安家出身の松平定信は、一時期、次期将軍候補と目されるほどの高貴な出自を誇りました。

しかし、田沼意次と比較すると、定信はその家格の高さゆえに意次のような柔軟性に欠け、町人など下層階級の生活を深く理解する環境で育っていませんでした。

現代に例えるなら、祖父や父親の地盤を引き継いで国会議員に当選する二世・三世議員のようなものです。なぜそう言えるかというと、封建制度下の武士階級では世襲制が採用されていたからです。

この世襲制の下では、上級武士の子は、よほどの失敗をしない限り、祖先から受け継いだ高い家格、豊富な俸禄、重要な役職を継承できました。一方、下級武士の子は、よほどの機会に恵まれない限り、どんなに努力しても低い俸禄にとどまり、軽い役職にしか就けませんでした。

才覚で成り上がってきた意次と生まれつきの坊ちゃんの違い

そういう意味では、定信は生まれつきの「おぼっちゃま」でした。足軽階級出身の父と同じく才覚だけで成り上がり、大名や老中にまで出世した意次とは、その出自があまりにも異なるため、同じ土俵で語ることはできないのです。

そうした定信の考えは、一橋治済と意次が人形師に扮して宴を盛り上げている場面で、後の定信となる田安賢丸が「武家が精進すべきは学問と武芸だ」と非難し、立ち去る第2話のシーンに描かれています。

しかし一方で、少年時代から堅物であるはずの定信が、第12話では青本『金々先生栄花夢』に興味津々とするシーンが登場します。

この2つの相反する姿は、実際の定信をよく表しているといえます。武士は武士たるべきだという信念を持つ定信と、浮世絵を収集し、そうした文化にも理解を示した定信。この両者がともに彼の真実の姿だったのです。

3ページ目 松平定信にとって悪の根源は、田沼意次その人

 

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