古代日本「磐井の乱」は反乱か?大和政権による捏造か?史料から浮かび上がる九州地方の豪族の新たな姿【前編】:2ページ目
反乱の真相に迫る史料
磐井の行動に怒った継体天皇は、528年に物部麁鹿火を派遣し、反乱を鎮圧させます。結果、磐井は斬られて戦いは終結しました。
『日本書紀』はこれを「磐井の反乱」と明確に記しますが、他の史料では少し様子が異なります。
例えば、『古事記』では「筑紫君磐井は天皇の命令に従わず、無礼だった」とだけ書かれ、反乱があったとか、磐井の行為が反乱だったなどとは明言していません。
また『筑後国風土記』も「強く暴挙で、天皇の命に従わなかった」と記すのみです。こうした記述の違いから、磐井が起こしたのが本当に「反乱」だったのかどうか、判断できないところがあるのです。
これについて研究者の熊谷公男氏は「磐井は国造ではなく、反乱後に子孫が国造になった可能性がある」と指摘しています。
つまり、彼は大和政権の正式な官吏ではなく、九州の有力豪族に過ぎなかったのかも知れません。
