明治新政府に最後まで抵抗した幕末のサムライ・榎本武揚は「最良の官僚」か日和見主義者か?:2ページ目
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黒田は、五稜郭落城の数日前から榎本らに降伏を勧告していました。
すると榎本は、断りの返事とともに、黒田にフランス語で書かれた『万国海律全書』と、
「この書は海軍日本に二つとないものだから、兵火で失うのは惜しい。海軍アドミラル(提督)のあなたに差し上げたい」
という手紙を託していました。
黒田は榎本の行動に感動し、オランダ留学の経験があって学識豊かな榎本を新政府でも働かせたいと考えるようになったのです。
黒田の尽力によって死刑を免れた榎本は、約二年半で出獄しました。
福沢諭吉の評価
そして榎本は、開拓次官だった黒田の部下として新政府で働き始めます。
それ以後、特命全権公使としてロシアへ派遣されたり、海軍卿・清国公使・文部大臣外務大臣・農商務大臣などを歴任しました。大物政治家の仲間入りを果たしたと言えるでしょう。
こうした彼の生き方に対しては、当然、強い反発もありました。たとえばかの福沢諭吉は、「二君に仕えるという武士にあるまじき行動を取ったあるまじきオポチュニスト」と酷評しています。
ただ、彼の政策力や外国との交渉力は新政府の官僚の中でも抜群で、彼のことを明治最良の官僚と呼ぶ人もいます。
そうして榎本は維新後は官僚人生をつらぬき、1908年(明治41)まで生き、73歳で亡くなりました。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
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