最近は「源平合戦」という名称は使われない?理由は源氏と平氏の複雑な内情にあった:2ページ目
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平将門のケース
たとえば、かの平将門の乱を起こした平将門の祖父である高望は、名前のとおり平家の出身です。
889年、高望は上総介に任じられて関東に下りますが、任期が過ぎてもその子供たちは帰京せず、下総国を中心に未開地を開発しました。そうして所有地を広げることで勢力を伸ばしたのです。
関東移住三世にあたる将門は下総国佐倉生まれで、平家一族といえどもすでに関東の人間だったのです。
平安時代中期には、将門と同じように、平家一族でありながら関東で生まれ育った者が増えていきます。そして平安末期になると、源頼朝の蜂起・台頭とともに頼朝の配下に組み込まれていったのです。
「源平合戦」といっても、それは両軍の総大将の血統によるネーミングに過ぎず、配下の血統までは表したものではなかったのです。
このため、最近では源平合戦とは呼ばず、当時の年号を用いて治承・寿永の乱と呼ばれることが多くなってきています。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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