江戸時代「将軍」を一度も輩出できず辛酸を舐め続けたエリート一族「尾張徳川家」の運命【前編】:2ページ目
2ページ目: 1 2
2度の将軍擁立失敗
家康直系の子孫は4代家綱で途絶えた。その後7代将軍の家継までは2代将軍秀忠および3代将軍家光親子の血筋を繋ぐが、家継が1716年に8歳で早世したためその血縁も途絶えてしまう。
7代将軍決定の際、尾張徳川家は最初の将軍輩出機会を得る。将軍職にあった6代将軍「徳川家宣」は尾張徳川家4代藩主の「徳川吉通」を7代将軍に推したのだ。しかし、側近の反対によって結果的に実子である家継を擁立した経緯があった。
家継亡き後、尾張徳川家6代藩主の「徳川継友」が7代将軍徳川家継の後継者候補に上がったことにより、尾張徳川家には再び将軍擁立の機会が巡ってくる。
しかし、同じく御三家であった紀州徳川家の「徳川吉宗」との後継者争いに破れ、またしても自家からの将軍擁立は叶わなかった。
尾張徳川家には初代藩主義直の意向により”将軍職を争ってはならない“という暗黙の了解が存在していたとされ、藩を上げて継友の将軍位就任運動を行うことがなかったことも原因といわれている。
次回【後編】に続きます。
ページ: 1 2