【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:前編:2ページ目
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諏訪一族と鎌倉幕府
諏訪氏と北条氏の強固な関係は、やがて暗雲をもたらすこととなります。
元弘元(1331)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕計画を企図。楠木正成や赤松則村らが加わり、反幕府の戦が拡大していきます。
元弘3(1333)年4月、鎌倉幕府は有力な御家人である足利高氏(尊氏)を鎮圧に差し向けました。
しかし高氏は5月7日、鎌倉幕府を見限って後醍醐天皇に同心。京の六波羅探題を攻め落としてしまいます。
翌8日、関東の上野国で御家人・新田義貞が150騎で挙兵。御家人の支持を受けた義貞の軍勢は大軍に膨れ上がります。
義貞はそのまま鎌倉に侵攻。幕府軍は方々で敗れ、18日には鎌倉が攻められることとなりました。
ほとんど同時に東西で鎌倉幕府倒幕の兵が起こった裏には、綿密な計画か御家人たちの不満があったと考えるべきでしょう。
5月22日には、執権・北条高時らが一族とともに東勝寺で自刃。鎌倉幕府と北条氏はここに滅び去りました。
ではこのとき、諏訪氏や頼重はどうしていたのでしょうか。
東勝寺では諏訪氏の一門である諏訪時光も自害。諏訪盛高(頼重のことと思われる)は高時の遺児・時行を保護して、鎌倉から脱出しています。
マンガ『逃げ上手の若君』では、頼重が時行を諏訪に連れ帰って匿った描写がされていました。
史実でも同様、諏訪氏は北条氏への恩義を忘れず、最後まで尽くそうとしていたことがわかります。
【中編】に続きます。【中編】はこちら↓
【逃げ上手の若君】武将・北条時行の最大の庇護者にして諏訪氏の当主・諏訪頼重の人生と真の姿:中編
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