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まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【前編】

まるで婦人のような優男! 織田信長が惚れ込んだ戦国時代の天才軍師「竹中重治」の逸話【前編】:2ページ目

【生涯】信長の誘いで秀吉の元へ

竹中重治像(禅幢寺所蔵)Wikipediaより

信長は美濃国侵攻の際に手を焼いた半兵衛に一目置いていた。部下の木下秀吉(豊臣秀吉)に命じて家臣に勧誘したという。

半兵衛は断るが、結果的に秀吉の家臣として仕えることを了承している。斉藤家家臣として信長と戦った過去が仕官を躊躇させたのかもしれない。

信長の元で立身出世してゆく秀吉を支えた半兵衛は姉川の戦いや長篠の戦い、中国攻めなどで活躍した。1579年に病で早世。享年36。

【逸話1】新加納の戦い

美濃斉藤家3代目当主「斉藤龍興」Wikipediaより

1563年。信長は自身が出陣する形で美濃攻めを開始。柴田勝家や池田恒興といった家臣を従え約6000の兵力で侵攻した織田軍に対し、斉藤軍は約3500と、兵力では圧倒的に不利な状況で迎え撃った。

木曽川を渡った新加納の地で合戦となった両軍。戦力的に圧倒的有利なはずの織田軍は、半兵衛が仕掛けた策によって思わぬ苦戦を強いられる。結果的に織田軍は想定外の犠牲によって退却。斉藤軍は防衛戦に勝利した。

この時、半兵衛が用いた作戦は「伏兵策」だったとされている。伏兵策とは奇襲の一種であり、敵が予期できない場所や時期、方法を用いて組織的な攻撃を仕掛ける戦術だ。

織田軍を退けた斉藤軍であったが、当主・龍興の半兵衛に対する評価は低かったという。このことが以後の乗っ取り事件に繋がっていく。

次回の【後編】ではさらに半兵衛の逸話、秀吉の家臣となった後の逸話に迫りたい。

 

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