「二大名城」の運命
宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』によると、織田信長の時代には、信長自らの居城である安土城と、明智光秀の築いた坂本城が、二大名城として知られていたそうです。
ちなみに坂本城は、現在の大津市坂本にあったといわれています。
ところが、この二つの名城は、1582(天正10)年の本能寺の変と、その後の山崎の戦いで相次いで城主を失うことになりました。そして、ともに似たような運命を辿り、廃城へと追い込まれていったのです。
両者が具体的にどのような末路に至ったのかを見ていきましょう。
遺構が整備されている安土城
まず安土城は、前述の通り本能寺の変の後で炎上しますが、すぐ廃城にはなりませんでした。
どの程度まで再建されたかははっきりしないのですが、織田家の家督を継ぐことになる三法師(のちの織田秀信)が安土城へ入っています。
そして翌1583(天正11)年1月には、信長の次男である織田信雄が、安土城下の振興策を打ち出して城の普請を行いました。
さらに、秀吉をはじめとする信長旧臣の諸大名が、安土城へ年賀の挨拶に訪れたこともあったそうです。
しかしこの翌年には、織田信雄と豊臣秀吉が衝突。秀吉が勝利したことで、6歳だった三法師は岐阜城へ移されました。
さらに1585 (天正13)年、秀吉が関白に就任して名実ともに天下人になると、秀吉の甥である羽柴秀次が八幡山に居城を築くさいに安土の城下町は移されてしまい、安土城は廃城となります。
こうして、天下の名城は歴史の舞台から姿を消したのです。
それから404年後の1989 (平成元)年には、滋賀県が20年の予定で大規模な発掘調査をスタート。これにより当時の様子が明らかになるとともに、石段や石垣が修復工事されていきました。
現在は大手道を中心に整備され、その独特の遺構を見学できます。さらに、多くの研究者によって天主の復元図やCGが発表されています。