戦国時代、わずか15歳で処刑された駒姫の悲劇!殺生関白・豊臣秀次の悪行の数々:2ページ目
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秀次に嫁ぐ前だったにもかかわらず処刑された駒姫
近親者を次々と処刑していったことからも、秀次に対して異常な憎しみを秀吉が感じていたと想像できます。後継者として関白の地位までつけた甥に対して、あまりにもむごい仕打ちをした秀吉。その憎しみは、まだ秀次に嫁いでいなかった駒姫にまで向かいます。
伊達政宗の叔父にあたる最上義光(もがみ よしあき)を父に持つ駒姫は、秀次に嫁ぐため京都へやってきました。しかし、秀次に会う前に秀次は自刃してしまいます。その半月後、駒姫自身も秀次の近親者として処刑されることに……。
まだ嫁ぐ前だったので、父親である最上義光は駒姫の助命に奔走しますが叶いませんでした。夫となる予定だった秀次と駒姫が対面したのは自分が処刑される場所だというから、悲劇としか言いようがありません。
すでに秀次は首だけの存在になっており、そこで駒姫は辞世の句を詠み、15歳という短い生涯を終えたのです。
おわりに
当時、日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスは、「分別のある思慮深い若者」と秀次を評しています。ただし、後に「野獣のような」という表現もしていることから、秀次には二面性があったのかもしれません。
現在では、秀次の悪行は秀次への憎しみを正当化したかった秀吉が捏造したという話もあります。
秀次に対する仕打ちにより、秀吉は豊臣家の親族の数を減らすことになります。そして、関ヶ原の合戦で徳川に属した大名が増えた起因になったのではないかとも言われています。秀吉の異常な憎しみが、豊臣家滅亡に繋がったのかもしれませんね。
参考書籍
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