平安時代、華やかな宮中では熾烈な政治抗争が繰り広げられていました。
貴族たちはこぞって娘を入内させようと必死だったそうです。入内とは、娘を内裏へ入れること、すなわち天皇陛下に嫁がせること。
娘が皇子を産めば、いつかその子が天皇陛下に即位した時、外戚として権力をほしいままに……そんな野望に燃えていたのでしょう。
今回はそんな政略結婚で内裏へと送り込まれた一人・藤原遵子(ふじわらの じゅんし/のぶこ)を紹介。果たして彼女は、どんな人生を送ったのでしょうか。
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調子に乗りすぎた弟の藤原公任
藤原遵子は天徳元年(857年)、関白の藤原頼忠と厳子女王(醍醐天皇孫娘)の娘として誕生しました。
同母の弟妹に藤原公任・藤原諟子(花山天皇の女御)がいます。
貞元3年(978年)、22歳で入内して円融天皇の女御(にょうご。側室の一人)となり、天元5年(982年)に晴れて中宮(ちゅうぐう。正室)となったのでした。
当時ライバルだった藤原詮子(藤原兼家の娘、道長の姉)を蹴落として中宮の座を勝ち取ったのです。
この頃が人生の頂点だったのかも知れません。
しかし喜ぶのは結構ですが、喜びのあまりかハメを外してしまったのが弟の藤原公任。よせばいいのに、わざわざ詮子たちの所へ出向いて言い放ちました。
「この女御は、いつか后に立ち給ふらむ」
※『大鏡』より
【意訳】こちらの女御(詮子)サマは、いつ中宮になられるんでしょうね?
ちょっと常識を疑ってしまう発言ですね。
ライバルとは言え、一度勝負がついたのなら、味方にはつけられなくてもあえて挑発するメリットなど何もないはずです。
今は何も言い返せない詮子や兼家たちは、ただ耐え忍ぶよりありませんでした。