徳川家康の次男として豊臣秀吉の養子に出され、続いて結城晴朝の養子にたらい回しされた結城秀康(於義伊丸⇒羽柴秀康⇒結城秀康)。
母親の身分が低かったため、父から認知してもらえず、幼少時代を過ごした於義伊。しかしやはり血は争えぬもので、家康譲りの豪傑ぶりを発揮したのでした。
今回はそんな秀康が父・家康の暗殺計画を知った時のエピソードを紹介したいと思います。果たして彼は、どんな対応を見せたのでしょうか。
羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】
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秀吉も賞賛!於義伊あらため羽柴秀康16歳の無礼討ちエピソード【どうする家康】
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秀吉亡き後、命を狙われる石田三成を護衛
時は慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉が世を去りました。享年62歳。偉大なるカリスマの死は政権内に激震を走らせ、各所で不穏分子が蠢動します。
その一つが、政権の実務を担っていた五奉行の一人・石田三成(治部少輔)に対する暗殺計画。彼は秀吉時代の汚れ役を一手に引き受け、それがために多くの恨みを買っていたのでした。
これを知った五大老の一人・徳川家康は血気に逸る者たちを説得します。
「確かに石田殿も、行き過ぎたところがあったかも知れない。なれば職を解いて、しばらく居城で謹慎させてはどうか」
家康がそう言うなら……ということで一命を取り留めた三成。しかし、本拠地である近江国佐和山城までの道のりも安心は出来ません。
「ならば、三河守に送らせよう」
勇猛果敢で知られる家康の次男・結城秀康(三河守)が手勢を率いて護衛を務め、それで三成は無事に佐和山城へ帰り着いたということです。
……太閤薨し給ひし後、宗徒の大名石田治部少輔三成を討んとす、徳川殿人々を制し玉ひ、三成職解て、おのが城に籠居すべきに極る、猶路の辺おぼつかなしとて、守殿して送られしかば、三成難なく近江国佐和山の城に入る、……
※『藩翰譜』第一 越前