家康を暗殺せよ!豊臣方の陰謀を知って結城秀康(於義伊)はどうした?【どうする家康】

徳川家康の次男として豊臣秀吉の養子に出され、続いて結城晴朝の養子にたらい回しされた結城秀康(於義伊丸⇒羽柴秀康⇒結城秀康)。

母親の身分が低かったため、父から認知してもらえず、幼少時代を過ごした於義伊。しかしやはり血は争えぬもので、家康譲りの豪傑ぶりを発揮したのでした。

今回はそんな秀康が父・家康の暗殺計画を知った時のエピソードを紹介したいと思います。果たして彼は、どんな対応を見せたのでしょうか。

羽柴秀吉の養子になった於義丸(結城秀康)。なぜ彼が選ばれた?【どうする家康】

小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)で激闘を演じた羽柴秀吉(はしば ひでよし)と徳川家康(とくがわ いえやす)。合戦においては家康が優位に立ったものの、秀吉は老獪な政治力で家康の大義名分…

秀吉も賞賛!於義伊あらため羽柴秀康16歳の無礼討ちエピソード【どうする家康】

小牧・長久手の合戦における和睦の条件として、羽柴秀吉(はしば ひでよし。豊臣秀吉)の元へ養子に出された於義伊(おぎい。徳川家康次男)。実質的には人質ですが、養子を迎えた秀吉は於義伊を大歓迎、秀…

秀吉亡き後、命を狙われる石田三成を護衛

時は慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉が世を去りました。享年62歳。偉大なるカリスマの死は政権内に激震を走らせ、各所で不穏分子が蠢動します。

その一つが、政権の実務を担っていた五奉行の一人・石田三成(治部少輔)に対する暗殺計画。彼は秀吉時代の汚れ役を一手に引き受け、それがために多くの恨みを買っていたのでした。

これを知った五大老の一人・徳川家康は血気に逸る者たちを説得します。

「確かに石田殿も、行き過ぎたところがあったかも知れない。なれば職を解いて、しばらく居城で謹慎させてはどうか」

家康がそう言うなら……ということで一命を取り留めた三成。しかし、本拠地である近江国佐和山城までの道のりも安心は出来ません。

「ならば、三河守に送らせよう」

勇猛果敢で知られる家康の次男・結城秀康(三河守)が手勢を率いて護衛を務め、それで三成は無事に佐和山城へ帰り着いたということです。

……太閤薨し給ひし後、宗徒の大名石田治部少輔三成を討んとす、徳川殿人々を制し玉ひ、三成職解て、おのが城に籠居すべきに極る、猶路の辺おぼつかなしとて、守殿して送られしかば、三成難なく近江国佐和山の城に入る、……

※『藩翰譜』第一 越前

3ページ目 大坂城で発覚した家康暗殺計画。秀康の対応は?

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