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戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【前編】

戦国時代の始まりは応仁の乱ではない!?「関東の三十年戦争」享徳の乱とは【前編】

殺し合いの果てに

さて、永享の乱以降、鎌倉公方は不在の状態になり、上杉家の人々も次々に出家したことから、関東管領もなかなか決まりませんでした。

そこで、最終的に、永享の乱で自害した持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方になり、持氏を死に追いやった憲実の息子である上杉憲忠が関東管領となります。後年から見ると、どうしてこんなトラブル必至の人事がまかり通ったのか、不思議ですが……。

で、案の定、親の代からの禍根により、成氏は憲忠を殺害します。憲忠に随行した22人もの人間も一緒に殺されたといいますから、これはもはや特定の個人の暗殺ではなく宣戦布告と言ってもいいでしょう。足利の恨みの深さが窺い知れますね。

ここで、享徳の乱の火ぶたが切って落とされました。この時に難を逃れた上杉方の太田資清などが、今度は仇討のため反撃に出たのです。ちなみに太田資清は、かの太田道灌の父親にあたります。

【後編】では、享徳の乱によって混迷を深めていく関東の情勢について解説します。

【後編】はこちら

参考資料
刀剣ワールド
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

 

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