源頼朝の次男として生まれた実朝は、兄の頼家が鎌倉から追放され将軍職を失い、3代目の鎌倉殿を継ぎました。後鳥羽上皇の従妹を正室に迎え、和歌にも精通し蹴鞠も盛んに行っていたので、京との関係は良好にこなしていたのではないかと思われます。
実朝が、東大寺を再建した宋の僧・陳和卿と御所で対面した際、陳和卿は
「実朝様は宋の偉い長老の生まれ変わりです。私はその方の門弟でした」
と述べたのです。
この話を信じこんだ実朝は大江広元や北条義時が諫めたのにもかかわらず、渡宋の夢を諦めきることができずません。とうとう、陳和卿に宋に渡る唐船を造船するように命じました。
ところが、完成した唐船は浮かばず、砂浜に朽ち果てたと伝えられています。
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現在、藤沢市大鋸には、実朝が造ったという唐船に縁のある神社があります。それは、「船玉神社」(祭神・弟橘姫命)です。
神社がある境内は、かつて実朝が唐船の用材を切り出したところと伝えられ、安全な船旅への願いから勧請された神社といわれています。
「船玉」とは即ち、「船の御霊(みたま)」のこと。民間信仰でも「フナダマサマ」として、船の守り神として、漁民や船乗りの間で広く信仰されています。
船玉神社の裏には鎌倉方面(海)に向かって川が流れています。このあたりを「大鋸」といい、かつては、大きな縦引きのノコギリを使う職人が大鋸引きの住んだ街でした。室町時代の中頃から大鋸に移り住み、大鋸職人の棟梁であった森家は、遊行寺の造営、玉縄城、小田原城の修築にも関わっていたということが残されています(市指定文化財『森文書』)。