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文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【前編】

文豪・石川啄木の墓はなぜ北海道にある?その謎と悲劇の歌人の生涯を追う【前編】

詩人としてデビュー

啄木は退学を機に上京を決意し、愛読誌『明星』の出版元である新詩社を訪ね、与謝野鉄幹・晶子夫妻との関係を築きます。

しかし、勢い任せで上京したものの就職できず、生活に困窮してわずか半年で盛岡へ帰郷します。

ただ、東京で築いた新詩社との縁により、帰郷後には新詩社同人として『明星』へ寄稿するうち、文学界から注目を浴びるようになります。

そして19歳でデビュー作の『あこがれ』を発表し、天才詩人として名が知られるようになりました。詩人としての活動が軌道に乗ってきたため、中学時代からの恋人である節子と結婚します。

しかし啄木は、結婚式をすっぽかしました。というのも、ちょうどこの頃に父・一禎が宗費滞納により住職の資格をはく奪されてしまい、一家は路頭に迷っていたのが原因でした。

この時、啄木は詩集『あこがれ』の刊行のため上京しており、結婚式のために帰郷する予定でした。しかし「今帰ったら文学の道を諦めて家族の面倒を見なきゃいけなくなる」と考え、式をすっぽかすという暴挙に出たのです。

そのため結婚式は新郎不在で、節子と親族だけという奇妙なものになりました。

北海道へ

結婚式のすっぽかしという暴挙に出た啄木ですが、結局は帰郷して父・一禎に代わって一家の大黒柱となります。

しかし文学家としての稼ぎだけでは足りず、渋民尋常小学校の代用教員を務めたものの一年ほどで退職。

この頃から、彼は北海道での新生活を夢見るようになります。

というのも、函館の苜蓿社が発刊する雑誌『紅苜蓿べにうまごやし』への寄稿をしていたため、その方面に伝手ができていたからです。

啄木は函館へと移住しますが、妻・節子は盛岡の実家へ、母・カツは盛岡に残り、家族離ればなれの生活が始まりました。このあたりから、啄木と北海道とのつながりが見えてきますね。

北海道では歌人・宮崎郁雨の引き立てもあり、函館商工会議所へ勤務したり、函館区立弥生尋常小学校の代用教員を務めたりして生計を立て、その後は北門新報社の校正係や小樽日報社の記者になります。

とはいえ、いずれも短期間で退社しています。

その後、彼は釧路新聞社に勤務しますが、やはり3ヶ月程で辞ました。しかも啄木は家族へ一切仕送りをせず、3人の女性と関係を持って遊んでいたと言われています。

ちなみに、人気漫画『ゴールデンカムイ』でも、この記者時代の石川啄木が登場します。

この頃、妻・節子は自身の家財を売って家計を支えるしかありませんでした。

(後編へ続く)

 

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